尖閣諸島の領有権問題

尖閣諸島問題の概要

目次

(1) 尖閣諸島の場所
(2) 五つの島と三つの岩からなる尖閣諸島
(3) 各島の写真
(4) 各島の地図
(5) 各島の地籍・地名
(6) 領土編入の経緯
(7) 古賀氏の「官有地拝借御願」
(8) 古賀辰四朗氏の開拓事業
(9) 存在しなかった尖閣諸島の領土問題
(10)
(11) 根拠のない中国の領有権主張
(12) 中台にスキを与えている日本政府
(14) 最後に
その他
(15) 琉球人の先導と駕乗導引を必用とした冊封船
(16) 尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎氏のこと
(17) 古賀氏における尖閣諸島のその後



1、尖閣諸島の場所

場所は、東シナ海にあり、一番大きい魚釣島まで、沖縄本島より東へ410km、
石垣島から北北西へ170km、台湾からは石垣島と同じく170km、
中国大陸までは330kmの位置にあります。


(図・第11管区海上保安部)


各島の位置とその名前について
島名    緯   度    経  度 中山伝信録 英国海図 指南広義 日本水路誌 その他 琉球名 八重山方言
魚釣島 北緯 25度45分31秒〜
  25度46分31秒
東経123度30分34秒〜
  123度32分42秒
釣魚島 釣魚島 釣魚島 ホアピンス
平和山・和洋島
ホアピンサン
(Hoapinsan)
ヨコンジマ
(またはユクンジマ)
尖閣諸島全てを
イーグンクバジマと言う
飛瀬 ※参考値北緯25度44分8秒 ※参考値東経123度30分21秒
沖の北岩 ※参考値北緯25度46分43秒〜
北緯25度46分55秒
※参考値経123度32分19秒〜
東経123度32分41秒
黄麻嶼
沖の南岩 ※参考値北緯25度45分17秒 ※参考値東経123度34分1秒
Pinnacle is
北小島 北緯25度44分45秒〜
北緯25度45分20秒
東経123度35分18秒〜
  123度35分47秒
シマグワー・鳥島
南小島 北緯25度44分28秒〜
  125度44分45秒
東経123度35分25秒〜
  123度35分46秒
久場島 北緯25度55分12秒〜
  25度55分46秒
東経123度40分15秒〜
  123度41分00秒
黄尾嶼 久場島 黄尾嶼 チアウス島
クバシマ
大正島 北緯25度53分52秒〜
  25度53分57秒
東経124度35分51秒〜
  124度34分06秒
赤尾嶼 久米赤島 赤尾嶼 ラレー岩
クミアカシマ
※1 これは牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」124・125ページの「(十二)尖閣列島の諸元」(平成8年10
月現在)から引用したものです。(平成16年1月24日)

※2 従って、氏の示された数値は,平成14年4月1日施行の測量法改正による世界測地系以前の、日本測地系に
よる値と思われます。

※3参考値 は私が調べ付け加えたもので参考程度にしかならないと考えて下さい。なお数値は平成14年4月1日施
行の測量法改正後のものです。

※4 日本の地図が赤尾嶼とか黄尾嶼とかの「嶼」の文字を使っていることから尖閣諸島は中国のものではと考える
方もいますが、沖縄県はかつて琉球王国として日本と清国に両属していたのです。その関係で公文書が漢文で書
かれています。従って釣魚嶼や赤尾嶼・黄尾嶼の文字があり、これが明治政府に引き継がれ海図や地図に転載さ
れます。だからと言ってそれは尖閣諸島の中国領有に少しも影響しません。いわんや沖縄県の領有主張に何の根
拠も与えません。
 明治5年政府は琉球王国を琉球藩となし日本に組み入れました。このことに王族が反対し清国も反発しました。日
本政府の姿勢はそれまでの東アジアの大国であり盟主である清国との関係よりも「西洋」と「万国公法」を主体とす
る世界に属する道を選択したものです。鎖国を解除した日本政府はアジアを基本とするのではなく、世界の中のアジ
アの一員として生きる道を決意したのです。これが後で日本と清国や朝鮮との紛争の火種になります。
 明治12年(1879年)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入しました。沖縄も清
国も反発はしましたが結局はこれを受け入れます。大正9年(1920年)にに台風で遭難とした中国人を尖閣諸島で働
いていた日本人が救出に当たったことに対して中華民国政府は3通の感謝状を贈りましたが、其処には日本帝国沖
縄県八重山郡尖閣諸島という文字が記載されています。遺言書と同様に国家間の関係を定める国際法は後の証拠
が優先します。従ってこれ以前の発見記載などを根拠とする中国の領有の主張は消滅します。また中華民国から中
華人民共和国に変わってもその法的根拠は次の政府に受け継がれることを国際法は保証しています。
 今から顧みれば国内での問題はありましたが、最も賢明な先人達の判断だったと言わざるを得ません。何故なら
琉球が独立していれば西洋は琉球に手を付ける可能性が高かったからです。そうなれば当時の日本も中国も琉球を
守れません。そうなると今日の東アジアが果たして存在できたかどうか疑わしいものです。
 沖縄の言葉は古事記や日本書紀などといった大和朝廷設立以前の日本のルーツを示しております。沖縄は古来
より日本語圏であり、琉球の日本編入は沖縄のためにも日本の為にもアジア・世界のためにも日本に属することが
最も良かったのです。但しそれは日本に組み入れられた後の事に何も問題が無かったと言うのではありません。






2、五つの島と三つの岩からなる尖閣諸島

尖閣諸島とは東シナ海に浮かぶ5つの島と3つの岩からなる島嶼のことです。
5つの島とは、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島のことであり、
3つの岩とは、飛瀬、沖ノ北岩、沖ノ南岩のことです。
最も大きな島の魚釣島でも広さが約3,6平方キロほどしかありません。


上図は第11管区海上保安部のものに飛瀬(とびせ)を加筆したものです。
(書き加えたのは飛瀬の位置を明らかにする為です)



3、 各島の写真
代表的な写真をあげています。
詳しくは「尖閣諸島の写真と地図集」をご覧下さい。

    
魚釣島_____________________________________________________________________________北小島・南小島
(写真・第11管区海上保安部)ーーーーーーーーーーーーー(写真・写真・第11管区海上保安部)



全景(南小島、北小島、魚釣島)_
_(写真・第11管区海上保安部)
_

 ーーーーーーーー
_______久場島__________________________________________________________________________大正島 ____________________
(写真・海保航空基地の業務)________________________________________(写真・webサイト)__________



4、 尖閣諸島の地図

代表的な島の青白地図をあげています。
詳しくは「尖閣諸島地図集」をご覧下さい。

   
___________魚釣島___________________________________________飛瀬

 
北小島と南小島

  
__________沖ノ北岩___________________________________________沖ノ南岩

  
___________久場島___________________________________________________________________大正島____________________


詳しくは参考資料(5) 写真・地図 をご覧下さい。
または下をクリックして下さい。
(1) 魚釣島・飛瀬_________(2) 沖の北岩・沖の南岩
(3) 北小島・南小島____ _(4) 久場島______(5) 大正島


黒岩恒の地図





5、 各島の地籍・地名


 石垣市が建立した地籍表示のための標柱です(左)。
背面には石垣市字登野城2392番地と記されています。


 5つの島には全て地籍があり、住所は沖縄県石垣市登野城2,350〜2,354番地です。
 今は全て無人島ですが、魚釣島にはかつて鰹節工場があり、多い時は99戸、248人が住む古賀村と呼
ばれた村落がありました。この村名は魚釣島を明治時代に開拓した古賀辰四郎氏の名前に因むものです。
明治34年出版の地学雑誌第13集(東京地学協会)に掲載された 「黄尾島之図」にははっきりと 古賀村
書かれています(拡大図)。古賀村がはっきりしていたのは魚釣島と久場島ですが、南小島にも開発の跡が
あります。古賀氏が開発したのはこの3カ所のようです。


(以前の地籍は沖縄懸八重山郡大浜間切登野城村2、390番地〜2、394番地)

島名 地籍 所有者 高さ 面積・石垣市土地台帳 面積・国土地理
院の資料
沖縄県土
地対策課
海岸線の延長 大きさ(※管理者の推定)
魚釣島 石垣市登野城2、392番地 栗原國起 海抜362m 3641983平方メートル 3.82平方q 3.825ku 9.68q 最も広いところで(以下同)、横約3550m縦約1330m。
(※尖閣列島ノート:面積=4、32平方キロメートル、周囲
=11、128m)
飛瀬
官有 海抜3、4m
0.01平方q 0.01ku 0.39q
沖の北岩 土地台帳に記載なし 官有 海抜24m
0.05平方q 0.05ku 0.81q 3個の大きな島は、左が横約150m 縦約80m、中央は横
約150m縦約50m、右は底辺約180m 高さ約150mの
三角形。
沖の南岩 土地台帳に記載なし 官有 海抜5m
0.01平方q 0.01ku 0.42q 横約185m 縦約45m
北小島 石垣市登野城2、391番地 栗原國起 海抜129m 258842平方メートル 0.31平方q 0.31ku 3.12q 横約880m 縦540m
周囲=3、164m 
南小島 石垣市登野城2、390番地 栗原國起 海抜148m 324628平方メートル 0.35平方q 0.40ku 2.61q 横約1、120m 横約520m
周囲=2、509m
久場島
(黄尾嶼)
石垣市登野城2、393番地 栗原國起
海抜118m
874049平方メートル 0.87平方q 0.91ku 3.54q
横約1、342m 横約1096m
面積=1、08平方キロメートル
周囲=3、491m
大正島
(赤尾嶼)
石垣市登野城2,394番地 栗原國起 海抜84m 41368平方メートル 0.81平方q
0.98q 横約190m 横約610m

 面積などは資料によって数値が異なるなど定説が無く、その為、牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」12
4・125ページの「(十二)尖閣列島の諸元」1996年(平成8年)10月現在による。
 その中に次の記事があります。
(4)魚釣島には奈良原岳(海抜1、181呎)という山がある。奈良原沖縄県知事に因む命名である。
(7)大正島を除く他の島々は近年まで古賀氏の所有であったが、現在は埼玉県の実業家栗原國起の所有です。
(8)ホアピンサは、英国サマラン号(1843〜1845年来琉)の琉球訪問記に記された島名である。

※ 島々に番地が付けられたのは一九〇二(明治三十五)年である。八重山大浜間切登野城村に編入された。
一九一四(大正三)年には石垣市登野城に改められた。
※ 最後の項目の大きさの縦横の数値は私が地図から計算したもの。従って非常に不正確である。大きさは上に示
した各島の地図を参考にして頂きたい。
※ 沖縄県土地対策課のものは土地対策課の島嶼別面積http://www.pref.okinawa.jp/tochi/toukei/tousyo.html
によったものです。




地名の由来−黒岩氏が命名
 尖閣諸島の名前はここを探検した沖縄県師範学校教諭黒岩氏が尖閣群島と名付けたこと
から来ています。
 彼は山や渓流にも色々と名前を付けています。釣魚嶼の最高峰(362メートル)を奈良原岳
(これは当時の奈良原繁沖縄県知事の姓です)、北面の東谷に道案渓(八重山島司野村道安
氏の名前)、安藤岬(沖縄師範学校安藤喜一郎校長の姓)、南小島の西岸を伊沢泊(伊沢弥
喜太氏の姓、伊沢氏は明治二十四年に漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航して
いる)、南小島の東部にある岩に「新田の立石」(黒岩氏の同僚新田義尊氏の姓)、北小島と
釣魚嶼とのあいだの西よりの水道を佐藤水道(長康丸の佐藤和一郎船長の姓)などと名前を
付けています。
地図に黒岩氏の付けた地名を加えてみました  魚釣島飛瀬地図1 南北小島地図1







6、古賀辰四朗(福岡県出身)氏の開拓事業


古賀辰四郎62才、安政3..1.18-1856大正7.8.15-1918 
「危機迫る尖閣諸島の現状」116ページ

上にも書きましたが、魚釣島にはかつて鰹節工場があり、多い時は99戸、248人が住む古賀村と呼ばれた
村落がありました。古賀氏は福岡県八女郡山内村(今は八女市山内)の人間で、一八五六(安政三)年の生
まれ。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いて
います。

古賀氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、夜光貝などの貝殻をボタンの材料として、神戸に売って(年
間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだした。その翌々年の一八八四(明治十七)年に尖
閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手。一八九
五年、古賀氏は本籍を福岡から沖縄に移し、「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」とな
り、本格的に事業にとりくんだのである。

以下は高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」の第7章尖閣列島のあれこれ(6)日清戦争とバカ鳥の島からの抜き
書きです。

 古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六
月号でこう語っている。

 当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た
若者が、 途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞
いたんですね。そ こで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。
明治十七年のことですがね。

 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八
五)年、 父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政
府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣し
ました。 調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西
村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。
 
 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。
父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、
宣言に踏み切らせた理由と思います。

古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無
償借地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送
り込むことに成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り
込んだ。この年の久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がい
つごろまでいたかは明らかでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本
及日本人』一九七○年新年号)。

 古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年
五十人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島
に派遣、さらに明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。

 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、
事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれ
ば八八人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第
五十六号)。

 明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十
一年には更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めた
のである(牧野清論文「尖閣列島小史」)。

 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当
たらせ、翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に
島に渡った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。明治三十六(一九○三)年に
は内地から剥製職人一○数人が移住し、明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人に達し、九
九戸を数えた。南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列
島と竹島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている
人がいるが、 それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。

 尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏によ
れば魚釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとど
うなるのか。この島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一
九四〇(昭和十五)年になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四
郎氏が一八九五(明治二十八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツ
オブシ製造と海鳥の剥製作りをしたのは魚釣島と南小島であった。

 古賀辰四郎氏が事業を開始されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場
島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタール
と思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎氏
は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。

 また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだと
いっている。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。だが、よく考えて
みなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕まえて、これ
を外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわせた
のは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦
地は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。

どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。

 国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島
の開拓に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構
築するとともに、排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功
績によって政府は一九〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究
会論文)。

 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖
閣列島研究会論文)。

 大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、と
くに魚釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究
会論文)。古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツ
オブシ製造をおこなったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営んでいた(奥
原敏雄論文『日本及日本人』一九七〇年新年号)。

アサヒグラフ・昭和53年5月5日号15頁下
 古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の
缶詰製造がある。ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグア
ノの採掘と積出しは、第一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他の事業も、
太平洋戦争直前、船舶用燃料が配給制となり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。

 尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手されたわけです。その古
賀さんが労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造ある
いはかつお節工場を現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、そ
の後現在にいたるまでも無人島になっている(桜井×氏)

 古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その
後、古賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は
日本政府から魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカ
ツオドリ、アジサシなどの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続
いたかについては明確な記録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい
(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海域の学術調査に参加して」参照)。

 古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖
の加工工場も建設された。そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。黄色嶼で明治四〇年代、古賀
辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任論文「尖閣列島を探る
(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。

古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み、(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」)。

 黄尾嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもや
さとうきびは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北
西岸に少しばかり平地があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採
取のため男女五三名という大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。

 正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人たちであろう。クバ
の葉脈でロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民
芸品などもつくったといわれている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が
不足してくると、クバの繊維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。

 多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明
にある古賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から
四島を買いとったときには、四島はふたたび無人島になっていた。


一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという
「証拠の写真」を八枚掲載した。(管理者注:開拓時代当時の古い写真に掲載したものであろう。このページ
の下にも2枚ほど掲載した)それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は筆者
が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾
島で生まれたという伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ
一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のものだと
いう。この写真には事務所の責任者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目
のところに白い着物を着て帽子をかぶり、 ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが
本当なのか。辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写
真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したものであろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せて
いるのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書いたものを門柱に貼り付けてある。これは写真
をとるために書いたものであろう。なかなかよい字である。

 ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願いを出して借り受けた
のに、どうして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。
しかし、黒岩恒氏が書いていているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考え
ていたとしたらどうなのであろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がないので妻帯者は弥喜太氏一人で
あったといっている。写真にある婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたもの
であり、子供労働者はとさや沖縄から買われきたものであったという。

 黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生までいて、一九一〇
(明治四十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,そ
の後、父弥喜太氏とともに台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』に
よれば、久米島の住人は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあった
ようだという。

 古賀花子さんは夫の古賀喜次から聞いたたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父弥喜太氏から昔
きいたことを 話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾
嶼(久場島)には飲み水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニ
で魚釣島まで水取りに出掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブ
シ工場は魚釣島にあったのか。それとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両
方にあったのかどうもはっきりしない。しかし伊沢真伎さんは黄尾嶼でカツオブシ工場をつくり、土佐から職人
を入れて経営していたというし、また黄尾島では貝殻の採取とアホウドリの羽毛の採取をやっていたといって
いる。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に
献上するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたという。真水がなくともカツオブシがつくれるの
かどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれるという。


辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのような話があったのかも
わからない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったと
いうことである。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡
航した。このとき弥喜太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の
服装をした二つの遺体をほら穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなか
で、同行の人夫が山中に白骨ありといったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかったといっている
が、それは釣魚島のことである。弥喜太氏は一八九三年再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰
四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。弥喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。

 一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶
應大学医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏
(一八九二年に沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。

 宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有害動物の有無や飲
料水の適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水が
ないことがわかった。

 宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月十二日午後四時、
古賀辰四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾
嶼に帰った。黒岩氏の釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したと
ある。教導とは案内役のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを
知っていた。「午後尾滝谷に着す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩
氏は書いているが、ここは「秋来たりて春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみ
なクバの葉でつくられていた。尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の
開発はクバの葉でつくった小舎からどんな発見をしたのだろうか。

 辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸
できるようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著
「尖閣列島と竹島」教育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、
婦人労働者の住まい、 子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。

 バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き
一九一四年に花蓮港で死んだ。

この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。こ
の二人が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が
継いだが、尖閣列島の「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。

 どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツ
オ、マグロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島
開発事業があったことは、まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○
○余円というから、これは当時としてはたいへんな金額である。



他に2・3古賀氏について述べたものがあるが、今のところこれが一番詳細であると思う。ただ、高橋氏の海
おられることを小生は全て正しいとは考えていない。非常に参考になったのも事実である。最近「古賀氏と古
賀商店」という論文があるのを知ったのでこれを読む日を楽しみにしている。



(※管理者注、古賀氏については別項に「尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎」を儲けています)


第11管区海上保安本部の「尖閣諸島」の記事には
開発の痕跡」として以下のことが記載されている。

○開発の痕跡

___________________
カツオ節工場の跡1 (写真・海上保安庁)   __________ 船着き場跡(写真・海上保安庁)   

 尖閣諸島が我が国の領土に編入された明治28年に、民間人から魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島に対し
国有地借用願が出されました。翌年、明治政府は同民間人に対しこれら4島を30年間無料で貸与することを許可
し、島には延べ数百人の労働者が送り込まれ、桟橋、船着場、貯水場などが建設され、開拓が進められました。
  当時、魚釣島と南小島ではカツオ節、海鳥の剥製などの製造が行われ、現在も石垣を積み上げたカツオ節工場
跡が残っています。

 昭和7年(1932年)には開拓者から魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島の払い下げが申請され、有料で払い
下げられました。
 現在は無人島となっていますが、昭和44年に石垣市により地籍表示のための標柱が建てられています。
※管理者注、この民間人とは私と同郷の古賀辰四郎氏のことである。古賀氏については、
尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎」を参考にして下さい。古賀氏の写真もあります。
ここに書かれている明治28年に、同氏出された魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島に対
する国有地借用願は、高橋庄五郎著 「尖閣列島ノート」の第7章「尖閣列島のあれこれ」の
第6節「日清戦争とバカ鳥の島」(148頁)に掲載されている。(下に引用)














7、存在しなかった尖閣諸島の領土問題

 尖閣諸島の領土問題とか領有権問題とか言いますが、それは昭和四十三(一九六八)年にエカフェ(国連
アジア・極東経済委員会)が、東シナ海の大陸棚に、膨大な石油資源が埋蔵されている可能性のあることが
指摘してからのことで、本来は存在しなかった問題なのです。その存在しなかったはずの尖閣諸島の領有権
問題が何故にこれほどの大問題となっているのでしょうか。

 それには幾つかの原因があります。 
1、経済的要因  東シナ海に石油・ガスが埋蔵すること。経済発展は13億の人口を有する中国にとって死
活問題であり、東シナ海の石油とガスの独占は、絶対的命題であります。

2、軍事的要因 中国海軍は東シナ海を既に収め、我が庭となしました。更に黄海から太平洋に出る道を確
保し海洋国家の実現を目指しています。それは安全保障の確保の為です。その場合、尖閣を日本が領有す
れば、尖閣は中国に対する棘となります。
 何故彼らは黄海から太平洋に至る道を確保しようとしているのでしょうか。それはアジアに於ける覇権の確
立と台湾解放とに関係があります。アジアに於ける覇権確立は中国の完全なる独立確保が狙いです。米国
にも他国にも一切嘴を挟ませぬ立場を確保する為にアジアでの覇権確立が必用なのです。ですが、それは、
アジア諸国にとって自らの独立が危うくなることです。台湾解放は中華人民共和国建国以来の課題であり、
これは何としてでも達成しなければならぬ課題です。でないと、中国共産党はその地位を脅かされかねない
のです。その為には彼らは何でもします。今自制しているのは台湾問題に米国が絡んでいる為です。中国が
台湾解放を決意した場合、尖閣諸島は台湾軍の押さえ場所として何が何でも自国のものにしておく必用があ
ります。

3、政治的要因 東シナ海の石油・ガス資源を独占することは、中国の経済発展に欠かせぬだけでなく、これ
を日本に半分取られることは、日本が資源国となることであり、日本を追い落として、アジアでの覇権を握ろう
としている中国にとって、甚だ不利な立場に陥るからです。更に言えば、東シナ海と南シナ海を完全に我が庭
となし、太平洋に至る道を中国が確保すれば、中国は大きく自国の安全を確保できると同時にアジアの覇者
への一歩を踏み出すことが出来るということです。逆に日本から見れば、それは独立を脅かされ、アジアに於
ける日本の地位は非常に危うくなる。アジアから見れば中国の作り出す秩序の下でしか独立を確保できなく
なるということです。
 中国が、「侵略戦争をした」、「南京虐殺をした」、「細菌戦争をした」、「強制連行をした」と言えば、政府も国
民もマスコミもぐうの音も出ない状態であり、中国からすれば、これを自国の国益獲得に利用しない手はな
い。人の弱みにつけ込んで根こそぎ奪うのは、中華思想の染みついた中国からすれば当然のことで、彼らか
らすれば、それを知らない日本こそ馬鹿だということになる。

 本来は存在しないはずの日中・日台間の尖閣諸島領有権問題が何故に斯くまで大問題になるのでしょう
か。その最大の理由は、日本政府も日本国民も日本マスコミも中国から、「侵略戦争をした」、「南京虐殺をし
た」、「細菌戦争をした」、「強制連行をした」と言えば、何の反論もできない、正論すら分からなくなる、言えな
くなる惨めな戦後の状況にあります。そういう状況は異常です。その状況は洗脳された人間が陥る状況と同
じです。戦後の日中関係には嘘があります。
 そうでなくても、戦争のことは日中平和条約締結時に解決した問題です。平和条約を結ぶということは、こ
れから仲良くしていきましょうという約束であって、過去の恨み辛みはここで水に流し、これからは対等に付き
合いましょう、互恵平等で行きましょうというものです。それを中国の政府高官も国民も今になって過去は水に
流せないという。
 これでは互恵平等の外交は実現できません。日本政府は対中姿勢を根本から改めるべきです。アジアに
覇権を求める中国に反省と転換を求めるべきです。それがアジアの平和と世界の平和につながる様にするの
が我が国の課題です。それが出来ないというなら対中外交は危険度の強いものと断定し、政治的経済的軍
事的攻撃を仮定して、これらに対抗できる処置を検討した外交関係に改めるべきである。というより、実はそ
れが世界に於ける外交の基本なのであるが・・・

 さて、本来は存在しないはずの日中・日台間の尖閣諸島領有権問題。問題が生ずる以前はどうだったので
しょうか。



  私が本当は領土問題はなかったというのは、東シナ海の資源問題が発する1968年〜70年以前は、中
国・台湾は日本の尖閣諸島領有に異論を挟まなかったし、尖閣は日本の領有する土地であると認めていた
からです。

 先ずそこから述べたいと思います。

(イ)沖縄県石垣市役所に保管されている「感謝状」



- 中華民国駐長崎領事が石垣村民に贈った「感謝状」 -



− 説明 −
   
感謝状
中華民国八年の冬、中華民国の福建省恵安県の漁民、
郭合順ら三十一人が風難に遭遇して飄泊し、
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島)に至る。
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村の職員玉代勢孫伴君は、
熱心に救●(一字不明)し、彼らを故国に生還するを得さしめた。
洵属救災恤●、富仁不譲深堪
(洵に災を救い●を救うに当たる、正に仁と言うべし、譲りて深く感佩に堪えず、か?
ここは小生にはよく分からない)、
特にこの状を以て謝悦を表す。

中華民国駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)
中華民国九年五月二十日

(領事名の下に「華駐長崎領事」の公印と年月日の上に「中華民国駐長崎領事印」が押されている)

 大正九年(1919年)の冬、魚釣島近海で中国人が遭難しているのを古賀氏が見つけて救出。八重山島庁(当
時)、石垣村役場も総出で救援活動を行い、31名を無事に本国に帰還せしめた。このことに対して中華民国の長崎
領事が感謝状を贈ったのがこれである。感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、
与那国島出身の通訳松葉ロブナストさん計四人に贈られた。現存するのは、玉代勢氏あてたこの一枚だけである。
同氏の長男、冨田孫秀氏が石垣市に90年頃に寄贈した。

この感謝状の中で中華民国長崎領事は、魚釣島のことを
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と
記し、救助した島民を
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。

「和洋島」というのは魚釣島の日本名である。(牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」124・125ページ)
 つまり、当時の中国政府は、魚釣島のことを日本国の八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島の日本名の一つ)と間
違いなく認識していたのである。今中国を代表する政府は、中華民国政府から中華人民共和国に替わっています
が、政府が替わったからと言って、この認識をなかったと否定することを国際法は認めていません。



(ロ) 尖閣諸島を日本領土と認めていた中国・台湾の教科書・地図

次に、一九七二年五月に外務省情報文化局が出した、「尖閣諸島について 」の中にこういうことが書いてあります。

中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条
に基づいて米国の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭和二十八年十二
月二十五日の米国民政府布告第二十七号により緯度、経度で示されています)に対して、従来
なんらの異議をとなえなかったことからも明らかです。のみならず、先に述べましたように、中国側
は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和四十五年(一九七〇年)
以後はじめて、同諸島の領有権を問題にし始めたにすぎないのです。現に、台湾の国防研究院と
中国地学研究所が出版した『世界地図集第一冊東亜諸国』(一九六五年十月初版)、および中華
民国の国定教科書『国民中学地理科教科書第四冊』(一九七〇年一月初版)(別添1)において
は、尖閣諸島は明らかにわが国の領土として扱われています(これらの地図集および教科書は、
昨年に入ってから中華民国政府により回収され、尖閣諸島を中華民国の領土とした改正版が出
版されています)(別添2)。また、北京の地図出版社が出版した『世界地図集』(一九五八年十
一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日本の領土としてとり扱われています。
中華民国59年(1970年)1月初版国民中学地理教科書では、
尖閣諸島を日本領土と認めた地図が掲載されています。

 中国は、尖閣諸島は日本帝国主義により掠め取られたもので、中国が歴史上ずっと尖閣諸島を自国領土としてき
たと言いますが、それは以上のことから事実とは違うと断言できます。何故なら、もしそれが事実ならば、かくの如く
「掠め取った」と、他国を盗人や泥棒の如くののしる国が、それまで放置してきた筈がないからです。はっきり言えば
これは嘘です。嘘を言って力で強弁して押し切ろうとしているのです。


 (ハ) 牡丹社事件  −「日清両国間互換議定書」に書かれたこと−
 明治4年(1871年)に牡丹社事件というものがありました。那覇に行った宮古島の貢納船がその帰りに暴風雨で
遭難し、台湾南部に漂着、乗員69人のうち3人が水死、残りは台湾原住民族・パイワン族の集落、牡丹社に救助を
求めたが、54人が殺害された。生き残った12人は翌年、中国・福建省を経由し那覇に命からがら帰ったという事件
です。
 外務卿副島種臣は1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉しましたが、清国政府は、台湾の住民は「化外の
民」で「教化の及ばぬところ」と事件に対する責任を拒否したのです。清国政府が台湾に住む部族のしたことを、我が
国の教化の及ばぬ者達が為したことであるから、自分たちに何も責任はない、我は関知しない、責任は取らぬという
のです。これは台湾は完全なる我が国の領土ではないと世界に発言したものです。台湾の住民すら「化外の民」で
あるという国が、本当に尖閣諸島を自国の領土と考えていたのでしょうか。誰だって甚だ疑問があると言わざるをえ
ません。さて、明治政府は74年、牡丹社懲罰の為に「台湾出兵」をします。


征討軍はまず厦門に立ち寄り、清国の福州総督に出兵の告知をし、その上で台湾
に上陸します。牡丹社を制圧し宮古島民の53柱を回収し、更に他の台湾部族との
戦いも7月には終わり、57部族と和議をします。
 清国とは10月31日、駐清国イギリス公使ウェードの調停で、「日清両国間互換議
定書」が調印されます。
 清国は日本の行為を「民を保つ義挙」と認めて先住民に害された者の遺族に見舞
金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設や道路を清国が買
い上げるという名目で40万両を支払うという内容です。
(これはあるWebサイトの要約です)

 「民を保つ義挙」の民とは遭難した宮古島の者のことであり、それを日本政府との外交文書で示したということは、
宮古島の人間は日本国民であると清国政府が正式に認めたということです。つまりこの「日清両国間互換議定書」
(日清両国間互換条款?)により、清国は琉球は日本領土であると認めたのです。ここで沖縄は日本の支配するとこ
ろだと日中間でも国際法の上でも決定したのです。

下は台湾のあるサイトの記事です。
滿清政府也昏庸到底,以賠銀五十萬兩外,在和約中確定「日本此次聲稱為保護琉民而進兵入臺,中國不指為不
是」,這是更大的損失,等於承認日本有權保護琉球,中國無形中喪失了對琉球的宗主國地位。同時展現在世界
各國面前是大清帝國願意賠款,而不敢作戰。
於十月三十一日,由駐北京英國公使.威綏瑪(Thomas Wade)居中調停,和約成立,日軍在登陸地的龜山建碑紀
念後,退出台灣。這件日本藉口牡丹社事件侵犯台灣,滿清政府賠了夫人又折兵的情況下於是告終。
この中に、「這是更大的損失,等於承認日本有權保護琉球」とあります。私は漢文を読めませんから大体しか分かり
ませんが、およそ、「(清国政府は)大失敗をやらかしてくれた。これは日本が琉球を保護する権利があると承認した
に等しい」と言っているようです。

 これで、中国の中にある、「沖縄は本来清国の属国であり、尖閣諸島が沖縄に属していたとしても、琉球そのもの
が清国に属していたのだから、尖閣は当然中国のものだ」という議論を封じることができます。


 「日清両国間互換議定書」で清国は、「琉球は日本の領土である」と認めたのです。これは今でも
覆りません。政府が替わっても、これを覆すことは国際法では認められないのです。明治政府は江
戸幕府が結んだ不平等条約をいやでも受け継がねばならなかったのはその為です。これは誰でも
守らなくてはならないのです。そうでなくては世界は力で国際間の紛争を解決するしかなく、混乱の
坩堝に陥ってしまいます。
 併し中国は今これを覆そうとしています。「戦後の日本による米国からの琉球接収は国際法上の
根拠を欠き、その地位は未確定のままだ」という最近の主張は、過去に清国が認めたことなど関係
ないという、国際法を無視した暴論です。マスコミはこれを日本側に対する揺さぶりなど言っていま
すが、そうではなく、何故ハッキリのと琉球に手を付けるなと言わないのでしょうか。かかる主張は
我が国の主権を侵害する行為だと何故批判しないのでしょうか。それだから中国は何も気にせずに
際限なく我が国の東シナ海に於ける主権を侵害してくるのです。
 しかもこれは揺さぶりでしょうか。揺さぶりではないかも知れません。尖閣諸島に手を付ける、或
いは東シナ海から日本を追い出しガスと石油を独占する。又、日本がガス田の試掘に入れば力で
阻止する。そんなことの、前触れ、予告かも知れません。それは侵略であり、主権侵害であり、脅し
です。揺さぶりではありません。






 (ニ) 中国も台湾も尖閣諸島を日本領であると認めてきた
 次に奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)の、「尖閣列島問題と井上清論文」(アジアレビュー)における指摘を引
用したいと思います。

−前略−
 まして尖閣列島の場合、中国も台湾も日本領であることを明示的に認めてきたのであ
る。少なくとも70年以前頃にお いてはそうであった。たとえば53年1月8日付『人民日報』
は「琉球群島人民の米国占領に反対する闘争」と題する重要な論説記事をかかげている
(※1)その中で琉球群島の定義をおこない、尖閣列島を、明示的に、この中にふくめて
いる(この定義では「包括尖閣列島」という言葉を用いている)また(※2)58年11月北京の
地図出版社が作成した地図でも「日本の部」において、尖閣列島は扱われ、魚釣島(今日
呼ばれている釣魚台とか釣魚嶼ではない)、赤尾嶼の名前を明示するとともに、尖閣群島
という総称を与えている。
 同様に台湾においても、(※3)63年10月の国防研究院と地学研究所によって出版され
た世界地図集第一冊(東亞諸国)において、尖閣羣島という名称で列島の存在を明記する
とともに、各島名を和音のロ-マナイズしたものとして示している。たとえば釣魚台は日本
名の魚釣島とされ、黄尾嶼、赤尾嶼もそれぞれカッコのなかで久場島、大正島の名前を併
記し、さらに黄尾嶼、赤尾嶼を中国音でなく和音で読めるようにロ-マナイズしている。尖閣
羣島もまた正確にSENKAKU・GUNTOとつづっている。その他、(※4)0年の中華民
国国民中学校地理科教科書でも、尖閣列島では、尖閣羣島)は、あきらかに『大琉球群
島』の一部とされ、魚釣島、北小島、南小島といった和名を付している。
 さらに台湾の付属諸島の範囲についても、(※5)64年の「中華人民共和国分省地図」
は最北端を彭佳嶼と明記し、同様に65年台湾省地方自治誌要」68年の「中華民国年
鑑」も彭佳嶼の北端を台湾省の極北と明示している(極東は綿花嶼)。
 このように70年以前の中国や台湾の公文書・文献(地図を含む)などで、尖閣列島を中
国領と明示したり、台湾省の一部に含めていた事実は、一つも見当たらない。反対に54
年の如く『基隆市志』(基隆市文献委員会)は、彭佳嶼、綿花・花瓶両嶼が、台湾に編入さ
れたのは一九〇五(光緒31)年であった事実を明記しているものさえある(右の文献によ
ると、この年、轄区の再調整が日本政府によっておこなわれ、彭佳嶼外二島が台湾の範
囲に含まれたと説明されている)。 
注: (※ )は管理人が加えたもの

中国と台湾はこれだけの事実を無視して、尖閣諸島は古来より我が国の領土だと強弁しているのです。彼らの領土
に対する感覚は、私達日本人と全く違います。彼らが中華思想を持つ覇権国家であることを私達は一瞬とも忘れて
はならないのです。中国を相手に、油断をしたり、相手を疑ることは良くない事だとか、善人であろうとしたり、共同開
発などという甘い言葉に惑わされれば、尖閣諸島は彼らに奪い取られ、永遠に我々のもとに帰らなくなるでしょう。






《閑話休題》

尖閣諸島の島々と地名について
島名 分類
classification
日本 黒岩恒 沖縄の名前 台湾 英語
尖閣諸島 諸島・islands 尖閣諸島・尖閣列島・
尖閣諸嶼・尖閣群島
尖閣列島 イーグンクバジマ 釣魚台列嶼 Senkaku Islands、 Senkaku-Shoto、Pinnacle group 
Diaoyu Islands、Diaoyu dao(中国)、
Diaoyutai Lieyu(台湾)
魚釣島 島・island 魚釣島・和平山 魚釣嶼 イーグン 釣魚嶼・釣魚台 Uotsuri-jima、Diaoyu Dao、Chiwei Yu、Red Tail、Hoa 
pin su
久場島 島・island 久場島・黄尾嶼 黄尾嶼 クバジマ 黄尾嶼 Kuba-jima、Huangwei Yu 、Yellow Tail
大正島 島・island 大正島・赤尾嶼
赤尾嶼・赤嶼 Taisho-jima、 Chiwei Yu、Red Tail
北小島 島・island 北小島 尖頭諸嶼・北小島
北小島 Kita Kojima、 Beixiao Dao、Northern Islet
南小島 島・island 南小島 尖頭諸嶼・南小島
南小島 Minami Kojima 、Nanxiao Dao、Southern Islet
沖ノ北岩 岩・rock 沖ノ北岩 尖頭諸嶼・数箇の巨石
Northern Rocks of the Open Sea
沖ノ南岩 岩・rock 沖ノ南岩 尖頭諸嶼・数箇の巨石
Southern Rocks of the Open Sea
飛瀬 岩・rock 飛瀬
Tobise、Flying Shoal

中国語はこのホームページの設定では表記できないので中国名は記さなかった。

下は高橋庄五郎氏の「尖閣列島ノート」の中の尖閣列島の島名からの引用です。

 黒岩氏は山や渓流に色々と名を付けている。釣魚嶼の最高峰を奈良原岳(奈良原繁沖縄県知事の姓)、
北面の東に道案渓(八重山島司野村道安氏の名)、安藤岬(沖縄師範学校安藤喜一郎校長の姓)、南小
島の西岸を伊沢泊(伊沢弥喜太氏の姓)、南小島の東部にある岩に「新田の立石」(黒岩氏の同僚新田義
尊氏の姓)、北小島と釣魚嶼とのあいだの西よりの水道を佐藤水道(長康丸の佐藤和一郎船長の姓)など
と新しく名を付けたのである。
 牧野清氏の「尖閣列島小史」によると、八重山の古老たちは、現在でも、尖閣列島のことをイーグンクバ
ジマと呼んでいるという。イーグンとは魚釣島のことであり、クバジマは久場島である。
 ところが、奥原敏雄教授は、「釣魚台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバジマの名で親しまれていた。」
(「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七〇年九月三日号参照)といっている。
 また、藤田元春氏は、「ユクン」とは「ユークの」という語の約で、つまり「琉球(ユーク)のクバ島」の意味だと
いっている。

我が国政府はこういう在野の賢人たちの優れた見識や民衆の気持ちを少しも生かしていない。
洵に残念でならない。
 というのは尖閣諸島の地図にこれらの地名は何一つ記されていないのです。大正10年(1921年)7月25日、赤尾
嶼を「国有地」編入するに際して、「大正島」と改称します。にもかかわらず、つい最近まで政府は赤尾嶼と国土地理
院の地図に書き続け、久場島は沖縄の住民が昔から使っていた久場島ではなく、黄尾嶼と書き続けていました。
 更に上図の奈良原岳、道案渓、安藤岬、伊沢泊、新田の立石、佐藤水道いずれも使用されていません。


北京週報の日本語版(http://www.pekinshuho.com/04-15/15-diaoyudao.htm)
1996年10月18日付 「人民日報」第8面で鐘厳は、「釣魚島問題について」の中で下の様に書
いています。

日本の地図や公文書ではかつて、島の中国名を正式に使用していたことがある。統計による
と、1935年から1970年にかけて日本で出版された地図21種類および大百科事典の3分の2に
「尖閣列島」の記載がなく、「魚釣島」と記載しているものもあった。日本では釣魚島に属する
島々の呼び方は混乱している。日本が最初に呼ぶようになった「尖閣列島」は、沖縄師範学校
の黒田岩恒教諭が1900年5月、イギリス人が呼んでいた「尖頭諸島」から名づけたという。日本
政府は1921年7月25日、同島の「国有地」編入に際して、赤尾嶼を「大正島」と改称したが、日
本政府はこの名称を長い間正式に使用しなかった。第2次世界大戦後に日本が連合国司令部
に提出した、海上保安庁水路部の海図は、依然として中国が命名した黄尾嶼、赤尾嶼を使用し
ている。米軍占領下の沖縄県が1969年に発した正式文書や掲示でも、黄尾嶼、赤尾嶼などの
島名が使用されている。1969年5月に釣魚島海域に石油が埋蔵されているとの情報が流れる
と、沖縄県は石油会社から相次ぐ調査申請を受け、同県石垣市長の命令で釣魚島に目印とな
る杭を建設、黄尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」と再度改称した。

しかし、これら島々の名称は勅令による命名を経ていないため、1972年以前の日本政府は各島
の島名を出して領有権を主張せず、漠然と「尖閣列島」または「尖閣群島」と呼んでいた。今日に
至るまで、これらの島に中国名を使用している日本地図も依然存在しており、平凡社が1984年
に出版した『世界大地図帳』には、はっきり漢字と日本語読みで「魚釣島(うおつりじま)」、「黄
尾嶼(こうびしょ)」、「赤尾嶼(せきびしょ)」と表記されている。また、現在日本政府や沖縄県の
正式文書でも黄尾嶼、赤尾嶼という呼称を使用している。防衛庁が1995年2月に衆議院予算委
員会に提出した「防衛庁資料」でも、中国名の黄尾嶼、赤尾嶼が使用されている


どうでしょうか。私がこのホームページの「初めに」の中で言っている、「尖閣諸島の政府独占は危険だ」というのが
事実だとお分かりになってもらえたでしょうか。私は日本政府に尖閣諸島は管理できないと考えています。政府が管
理すれば中国の思いのままになる。尖閣諸島は危険であると断定します。尖閣諸島を民間に開放し、日本経済に組
み込む案を在野の賢人に仰ぐべきです。そしてその構造を守る為に政府は行動すべきです。







8、琉球人の先導と駕乗導引を必用とした冊封船

さて、本題に戻ります。
 奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)は、先に引用した「尖閣列島問題と井上清論文」(アジアレビュー)の中で、
明治以前の琉球国人と中国人との尖閣の認識について興味ある文章を書いておられます。
(■人とは福建省の人間のことだと考えて下さい)

 第二に、尖閣列島とその航路についての琉球人と中国人の熟知程度であるが、これについ
ては、陳侃『使琉球録』(一五三四年)巻一が十分あきらかにしている。すなわち人の方がこ
の海路に熟知していないこと、そのために陳侃は人だけの航海に非常な不安を覚えていたこ
と、それだけに渡琉前年の11月に琉球の進貢船が入港したことを知り、航海の詳細を聞く事が
できると非常に喜んでいた事を右の使録は誌している。
 また琉球の次期国王(世子=尚清)は冊封船を操る術に人が十分慣れていないことを心配
して、看針通事(中国語のできる針路士)と舟を十分に扱いうる琉球人三〇人を乗せた迎接船
を福州まで派遣し、冊封船の先導と操船にあたらせたことを記し、そうして陳侃自身これを非常
に喜んだことをあきらかにしている。
 右の陳侃の記述は井上氏の主張と完全に反対の事実を明らかにしている(井上氏によれば
尖閣列島は、琉球人には何の関係も無かったし、従って琉球人には列島に関する知識は、ま
ず中国人を介してしか得られず、また彼らが独自に列島に関して記述できる条件のほとんどな
かったし、またその必要も殆どなかったとされている)。
 井上氏はどうも冊封船が往路復路とも琉球船の先導と琉球人の駕乗導引を得ている事実を
ご存じないらしく、現存する史料に記録として残されただけでも二八一回琉球船(進貢船、謝恩
船、迎接船など)が福州へ赴き帰途尖閣列島の航路を通っていたこと、さらに琉球の勘合符船
が陳侃以前に既に九八回、安南・シャムなどとの交易に従事していた事実(これらの琉球船も
帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない)にも通じておられないように思われる。
 これに対して陳侃以前には一〇人の冊封使が琉球に赴いていたにすぎず、しかもこれ以外に
中国から琉球への公船が派遣されたことはなかった。かくして琉球船に対する中国船の派遣
率は、実に、三二分の一にすぎない。しかも陳侃の場合は前使黄旻との間に五五年、陳侃と
郭汝霖との間はニ八年というように,非常に大きな空白があった(その後の冊封使も同様で、
張学礼・林鴻年各三十年、徐葆光・周煌各三七年、李期元四〇年、夏子陽・社三策各ニ七年、
汪楫一九年、超新ニ八年。これに対して琉球船は陳侃以前に毎年約二隻)。■(※注2)人が
尖閣列島の航路に不慣れであったり、操舟の術に不安があったのも、経験不足から、いわば
当然であったといえよう。
 そうしてそれ故に往路復路とも常に琉球船(往路は、一年一貢制のときは帰国の新貢船、二
年一貢制以後は迎接船=陳侃がその最初の例、復路は謝恩船)の先導と、琉球人の冊封船
への移乗および駕乗導引が必要であったのである。井上氏の誤りは、尖閣列島を記載した流
球と中国との文献の数を、単純に比較し、他方、琉球通交史に関する史料・文献にあたらなか
った結論による。
 かくして、冊封使たちは駕乗している琉球人が進路目標として尖閣列島をとったこともあって、
冊封船上からこれを望見したにすぎない。
 尖閣列島を記載した最も古い文献として陳侃使録は有名であるが、この使録において列島の
島嶼を陳侃が命名した事実もなければ、何らかの文献を引用した形跡もない。それ故、陳侃は
船上の琉球人等からその名前を聞いて使録に残したとみるのがむしろ自然であろう。
 陳侃は、厳従簡『殊域周資録』によれば、久米島すら、それが琉球であることを、琉球人に質
問してはじめて知ったとされている。陳侃が、井上氏の主張されるように、久米島より手前の
島々を中国領であると意識して「乃属琉球者」と記したものでないことは、この事実によっても分
るし、上述した歴史的事業とも一致する。
 ■は表示することの出来ない文字です。 漢字で、門の中に虫です。このホームページ制作ソフトではこの
漢字がコードにないらしく表されません。

辞典によると、福建省は古代人の領域であり、戦国時代に楚に滅ぼされた越王族がに逃げ込んだため、越と
呼ばれるようなった。紀元前221年秦帝国に征服され、中郡が設置されたが、秦末の動乱期に越国として独立
した。とありますし、福建省の略称はとあります。



私もそうであったように、これを読んでハッと気が付かれる人が多いのではあるまいか。中国人は、自分たちが尖閣
諸島を発見し命名した」のだ言っているが、真実は違うじゃないか。本当は、中国人は島の名を書き残しただけで、
実際は琉球人が案内した航路でこれを見ただけの冊封使が、報告書に勝手に釣魚嶼と書き記しただけのことで、尖
閣諸島近海は琉球人が最も知悉し、琉球人だけが往来する海であったのだ。
 従って、中国の言う、「釣魚台は自分たちが発見し、命名したのであり、釣魚台は自分たちのものだ」という発言は
歴史的事実ではないのである。

 既に書いたように、中国・台湾との尖閣諸島の帰属問題の処理は、この様な古い歴史にさかのぼる必用はない。
明治後の歴史だけで十二分なのである。それは国際法が1928年の判例以来、発見だけでは領有権が生じないと
しているからで、しかも、歴史をさかのぼってもこの様な状況なのである。

 これで分かることは、特に中国の尖閣諸島の領有権主張は、事実に基づいた主張ではなく、政治的・軍事的・経済
的必要性と欲求から主張なのである。これを世界では覇権主義と言う。古くは中華思想と言った。この様なことがま
かり通るならば、世界は、特に我が国も含めて東アジア諸国は、中国との互恵平等の関係も、国家の自主独立も保
つことが出来なくなる。中国の決める平和の下での国家運営しかできなくなる。国々は自主的精神を発露できなくな
る。従って、日本は決して中国の尖閣諸島領有や尖閣諸島の共同領有・共同開発、我が国の排他的経済水域での
共同開発という要求に屈したり与してはならない。妥協もしてはならない。日本政府と日本国民は中国に対してよい
子であってはならない。「彼らは普段は優しくても、道理を破ることを決して認めない」と思われなくては駄目なのであ
る。そうでなくては我が国の独立は脅かされる。またアジアの国々は中国の影響圏下におかれ、自主的政策・決定
できなくなる。尖閣諸島問題・東シナ海に於ける我が国の排他的経済水域の問題はその分岐点である。





9、最後に

 このホームページの最初に書きましたが、私は尖閣諸島の領有権問題を解決する方法は、直ちに尖閣諸島の政
府独占を排除し、尖閣諸島を広く民間に開放し、これを日本経済に組み入れることだと考えております。それも大至
急にです。これが最も優先されるべきことなのです。国際法の認める領有の意思と実体は、国民が現に居住し、生
活を営み、その国の経済に組み入れられていることに勝るものはありません。尖閣諸島を民間に開発させる行動は
既に遅きに失していますが、中国が尖閣諸島に対する支配意思を明確に示している以上、それは尖閣諸島を領有す
る国家として当然なしてよいことでせあり、且つ為さねばならぬ行為なのです。そうしなければ、その領有意思と根拠
を世界から疑われます。その当然の行為をなした上で、国民の経済生活と身体と財産が中国・台湾によって脅かさ
れる恐れがならば、その時に直ちに、広く世界に彼の非を唱え、堂々と国民の生命と財産を護るために自衛隊を駐
屯させればよいのです。中国政府と台湾政府が尖閣諸島の領有意思を明らかにし、尖閣に向かう国民の取り締まり
をなさない現状では、その為の準備は公然と堂々と当然なされてしかるべきです。事が起きないのを頼むのではな
く、事が起きたら直ちに確信をもって的確な対応ができる為の備えを為すことが、独立国のなすべき対応でありま
す。 こせこせとした今の政府の態度は国内的にも国際的にも良くありません。

 尖閣諸島の島々はいずれも国際法で言う島嶼であり、そこに領海と排他的経済水域を有する国際法上の島嶼であ
ります。それは国連海洋法という国際法に定められているところのものです。

 併し尖閣諸島を守るものは国際法ではなく、私達の日本人としての気概です。独立国家に生きるものとしての自負
心です。それがなければ、いずれ尖閣諸島は中国のものになります。私達は尖閣諸島は当然日本の領土だから、こ
れを中心として領土と排他的経済水域を東シナ海に有していると思っていますし、自分たちの考えは絶対に正しいの
だから国際法と国際世界は日本の尖閣諸島領有を支持すると考えています。ところが気が付いてみると、今尖閣諸
島に対する我が国の領有権は世界的に見れば支持する国がどれだけいるでしょう。日本の国連に於ける常任理事
国入りを支持する国より少ないのが現実かも知れません。

 我が国政府は怠慢に過ぎました。併しそれだけが原因ではありません。そこには国民の無知と油断もありました。
そして、何より中国の三〇数年に及ぶ飽くなき努力があったからです。このままでは我が国はとても中国に太刀打ち
できません。

 我々の頭の中には尖閣諸島は当然我が物という考えがあります。底に油断があったのです。正しければ世界が守
ってくれる。仲良くしていれば必ず理解してもらえる。悪いことをしなければ憲法が守ってくれる。それが油断を生じさ
せたのです。中国は私達と違い、国家戦略として東シナ海を我が庭となそうとしており、尖閣諸島を日本から奪うこと
は絶対に必用であるとして、手に入れる為の方法を国内・国外に着実に実行してきました。日本を支援する国々を離
脱させるという、地道な作業を着実にこなして、日本の目に見えないところで外堀を埋めていたのです。
 現行憲法は我が国の生存を、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」保持しようと決意しています。併し、
中国は我が国の平和など愛していません。世界の平和も愛していません。愛するのは、自分たちの安全と生存と発
展の為に自分を犠牲にして中国の安全と生存と発展に貢献する日本です。自分たちの考える安全と生存と発展を支
持する世界の平和です。そんなものが平和でしょうか。併し彼らはそういう平和と秩序構築を目指し、95年からの僅
か10年の間に国防費を3倍増させているのです。これは何を意味しますか。

 「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的
なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」(憲
法前文)とは中国も北朝鮮も信じてなどいないのです。これでは日本が太刀打ちできる筈がありません。

 日本が尖閣諸島を永遠に領有することを世界も国際法も保証はしない。裏付けはするが常に努力しない者を守る
ほど世界も国際法も甘くはありません。最後に自国を守るものは、世界でも、国際法でもなく、日本国政府と日本国
民の自らの国土は自ら守るという覚悟です。それがなければ世界も国際法も日本の尖閣領有を支持しないのです。
私達は法的には日本の領土である筈の竹島を韓国に、北方4島をロシアに現実に奪われているではないですか。そ
れらは未だに帰ってきていないではないですか。国際司法裁判所に訴えることもできないという現実があるではあり
ませんか。その現実を見れば我が国の為すべき道は自ずから明らかとなります。

 戦後日本の人間観・世界観が間違っているのです。我が国の憲法が正しく、世界が間違っているというのは、それ
こそが間違いです。思い上がりもいい加減にしてもらいたい。これほど日本人のむ思い上がりと無知を示すものはあ
りません。憲法そのものが間違っている。この憲法は人間と日本人を侮辱するものである。それすら日本人には分か
らない。私が他国の人間なら、「どうぞ日本はそのまま生きて下さい。そして憲法と共に滅んで下さい。ただし私達に
迷惑がかからないように亡国の民となってください。亡くなってから世界に救いを求めるのだけは止めて下さい」と言
うだろう。「ただし、資金援助はまだまだして下さいよ」とだけは付け加えるであろう。

 即ち、憲法が間違っているだけではない、それ以上に、日本人の心根が間違っているのである。この憲法の本質
が占領基本法である。にも関わらず、平和憲法であると言うが如き日本人の心根が間違っているのである。重箱の
隅をほじくるとはこのことかと言いたくなる。重箱全体の食物が腐っているのに、必死で腐っていないご飯一粒を見い
だして、「この弁当は大丈夫だ、美味しいぞ、美味しぞ」と大声で人々に叫んでいるアホな人間に日本人が思えてく
る。

 私達は35年前に台湾と中国と韓国が尖閣諸島の領有権を主張した時に彼らに対してハッキリと言わねばならな
かったのだ。「尖閣諸島は我が日本の領土である。これを君らが自国のものだと言うことは決して許さない。我が国
の領土を侵すが如き行動を為すならば断固たる処置を取る」と。

 今からでも、遅くはない。「日本政府と日本国民は必ず尖閣諸島を守る。我が国の権益を不法に侵すことは絶対に
認めない。犯すことあらば国民の血を流してでも必ずこれは守る」と明言すべきである。それが出来ないなければ、
尖閣諸島の帰属問題は今後も揺れ動くし、時間と共に尖閣諸島の帰属は中国の意思次第という事態になっていくで
あろう。







その他の事

領土編入の経緯

 我が国が尖閣諸島の領有意志を明確にしたのは、一八八五年(明治十八年)沖縄県知事西村拾三が、尖閣群島
を同県の所轄として国標を建設したい旨大政大臣宛に上申して以来のことです。
 上申を受けた井上外務郷は、尖閣諸島が清国福建省境に近いことから、清国との間に問題の起こる事を恐れ、こ
れを退けました。中国人はこれをもって「日本は中国の領土と分かっていたから奪う機会を狙っていたのだ」と言いま
す。それは邪推というもので、自分たちだったらそうする(現代の南沙諸島も尖閣諸島に対するやり方を見れば明白)
から、日本人も同じだと考えているだけのことです。併し今の日本を思えば当時の日本政府が何でそういう態度に出
たのか当然理解できると思います。当時清国は大国で日本は完全な小国です。明治の日本が領有権を表だって主
張できなかったことは当然です。併しそれは尖閣諸島が清国の領土だと認めていたからではなく、あくまで当時は大
国であった清国との間に問題の起こることを恐れた結果にすぎません。

 併し沖縄県では、その後も尖閣諸島近辺において漁獲を試みる者があったようで、沖縄県知事は明治23年(189
0年)、明治26年(1893年)と相継いで同県の所轄方と標杭の建設を、内務および外務両大臣に上申しました。下
に引用した「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」の中にそのことが書いてあります。

 明治28年(1895年)3月14日、閣議で魚釣島・久場島を沖縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通りに所轄標
杭を建設することを決定(勅令十三号)し、その旨を沖縄県知事に指令しました。翌明治29年4月1日、沖縄県知事
は勅令十三号に基づき同列島を八重山郡に編入させる借置をとりました。この尖閣列島に対する国内法上の編入借
置により尖閣列島は正式に我が国の領土に編入されたのです。

 日本は清国と戦争になって初めて尖閣列島領の意志を表明できたのです。それまでは清国との争いを恐れ明らか
にできませんでした。日清戦争で日本は尖閣諸島を奪い取ったと言われるのはこのためです。ですが、よく考えて下
さい。当時の世界には未発見の土地があってそれを発見した国が領土に編入した時代です。そして、いつでもどこで
も本当のことが言えるというのは大国の論理です。百年後の現在も本音を言えない民族や国家が沢山あります。戦
後の敗戦小国の日本は再び三度事なかれ主義に陥り何も言えない、言わない時代が続きました。今もそうです。経
済大国となり尖閣諸島を領有している現在ですら政府は中国との争いを恐れ尖閣諸島に上陸し領土を侵犯した中国
人を中国の圧力に屈し法律で罰することなく帰国させました。こういう態度が中国や台湾につけ込まれるスキを与え
てしまい、問題をこじらせてしまっているのです。


「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」(『日本外交文書』第十八巻版図関係雑件)
沖縄県ト清国福州トノ間二散在スル久米赤島(久米島ヨリ未申ノ方大凡七十里ヲ距チアリ清国福州ヲ去ル或ハ
ニ百里二近カラン)久場島(久米島ヨリ午未ノ方大凡百里ヲ距テ八重山島ノ内石垣島二近接セル大凡六十里余
二位ス)及魚釣島(方位久場島ト同一ニシテ唯十里程遠シ)ノ三島ハ別ニや国所属ノ証跡見エス且ッ沖縄所轄ノ
宮吉八重山高等二接近セル無人島填ナルヲ以テ国標取建二関シ沖縄県知事ヨリ上申アリタルヲ以テ右ノ詮議
方太政大臣へ上甲スルニ先チ明治十八年十月九日山県内務卿ヨリ井上外務卿へ意見ヲ徴シ来レリ外務卿ハ
熟考ノ結果本島填力清国国境二接近セルコト叢雨タル(筆者注小さい)島填ナルコト当時清国新聞紙等二於テ
本邦政府力台湾近傍ノ清国所属島填ヲ占拠セシ等ノ風説ノ掲載セラレ清国政府ノ注意ヲ促シ居ルコト等ノ理由
二拠リ国標ノ建設島填ノ開拓ハ他日ノ機会二譲ル方然ルヘキ旨十月二十一日回答セリ依テ十二月五日内務外
務両卿ヨリ目下建設ヲ要セサル儀ト可心得旨沖縄県知事へ指令アリタリ
明治二十三年一月十三日沖縄県知事ヨリ本件島喚ハ従来無人島ナルヨリ別二所轄ヲ定メス其儘二為シ置キタ
ル所近時水産取締ノ必要ヨリ所轄ヲ定メラレ度キ旨八重山島役所ヨリ伺出アリタルニ付勇管轄所定万内務大臣
へ上申アリタリ
明治二十六年十一月二日更二沖縄県知事ヨリ当時二至り本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ試ムル者アルニ付之力取
締ヲ要スルヲ以テ同県ノ所轄ト為シ標杭建設シタキ旨内務外務両大臣へ上申アリタリ依テニ十七年十二月二十
七日内務大臣ヨリ本件閣議提出方二就キ外務大臣へ協議アリタルモ異議ナカリシヲ以テ閣議ヘ提出ノ上明治
二十八年一月二十一日閣議ノ決定ヲ経テ内務外務両大臣ヨリ曩ニ上申中ノ標杭建設ノ件聞届ク旨沖縄県知事
へ指令アリタリ

(一)
魚釣島外二島ノ所轄決定二関シ伺ノ件
甲第一号
管下八重山群島ノ内石垣島二接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀二付十八年十一月五日第三百八十四号伺二
対シ同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モ有之候処右ハ無人島ナルヨリ是迄別二所轄ヲモ不相定其儘二致
置候廼昨今二至リ水産取締ノ必要ヨリ所轄ヲ被相定度旨八重山島役所ヨリ伺出候次第モ有之労此際管下八重
山島役所々轄二相定度此段相伺候也
明治廿三年一月十三日
知  事
内務大臣宛





一八九五年六 月十日付で野村靖内務大臣にだした古賀氏の「官有地拝借御願」


高橋庄五郎著 「尖閣列島ノート」・古賀辰四郎という人より

 私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラス水産業挙ラサルハ予テ 憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマテ或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ海産物ノ 探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候
 更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサル大東島ニ組合員ヲ送リ一 方ニ以テハ農事ヲ勤メテ日常食糧ノ窮 乏ヲ防キ一方ニ以テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年 十一月廿日時ノ沖縄県知事丸岡莞爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候
 是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航シ船八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニ バカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島ニ棲息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ 営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ来ルモノナル事ハ毫モ疑無御座候
 予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト承リ居候間試ニ数羽ヲ射殺シ品見本トシテ其羽毛ヲ欧州諸国 ニ輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛ハ実ニ外輸出トシテ大ニ価値アルモノト 信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ応スルニ足リル数量ナルヤ否ヤヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテ ハ相当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候
 以上ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候様ノ事ニ立チ至ベク 自然多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有 之候間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島ハ未タ我邦ノ所属タル 事判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ注文アリタルニ係ラス之 ニ応スル能ハサリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候

(改行は私がしたものです−「尖閣諸島の領有権問題」管理人)





古賀氏における尖閣諸島のその後

(高橋庄五郎氏著「尖閣列島ノート」より)
古賀氏の開拓事業は、一九四〇年(昭和十五年)頃まで継続されていた。 
 さる大戦後はアメリカの統治下に入り、群島組織方により尖閣諸島は八重山郡島に包括あれ(年表53)、また琉球
政府章典(年表55)dも尖閣諸島は琉球政府の管轄となる。 
 一九五五年、久場島は米軍の演習地としえ使用(年表57)。翌一九五六年には国有地大正島も米軍の演習地と 
なる(年表58)。 
 石垣市は土地借賃安定法に従い、土地等級設定の為係員十一名を派遣調査せしめた(年表60)。一九六八年、 
米軍は南小島に不法上陸の上陸四十五名に対し退去命令(年表61)また不法入域者(台湾漁船)がいるので米軍 
は航空機によるパトロール、琉球政府には巡視艇による巡視実施する(年表62)。 
 一九六九年、石垣市は尖閣諸島の行政管轄を明示するため、各島にコンクリート製の標識を建立(年表63)。 
 一九七〇年、琉球政府は久場島にたいする巡検を実施。 不法入域者十四人に対し退去命令(年表64)。 
 同年米民政府は不法入域者に対し処罰する警告板を魚釣・久場・大正・南北小島の五島に設置(年表65)。 
 一九七〇年以降、中国、台湾から『尖閣列島は中国領土である』との度々の抗議に対し、日本政府は『日本固有 
の領土である』と繰り返し反論した(年表参照)。 
 日本間の沖縄返還協定により尖閣諸島も南西諸島の一部として、他の島々とともに日本に返還された(一九七二 
年五月十五日)。アメリカの沖縄統治は二十七年間も続いた(年表106)。 
 一九七二年、古賀善次氏は南小島・北小島を埼玉県の実業家栗原国起氏に譲渡(年表112)。 
 一九七八年、古賀善次氏死去。妻花子さんが資産を継承(年表113)。同年花子さんは魚釣島も栗原氏に譲渡 
(年表114)。 
 一九七八年、中国の抗議船団約200隻が尖閣諸島海域に侵入、十数日も居すわって尖閣諸島は中国の領土で 
あると抗議した。但し台風接近のため雲散霧消した(年表115)。 
一九七八年十月、中国の再高実力者 ケ小平氏来日、尖閣領有の棚上げ論をのべて日本国民を唖然とせしめた。 
但し合意したわけではない(年表116) 
 一九七九年、古賀花子さんは石垣市に対し小学資金として金一千万円を寄贈した(年表117)。 
 一九八八年、古賀花子さん死去。古賀家の資産は遺言により栗原国起氏に贈られることとなった(年表118) 
 栗原氏は古賀家の遺産をもって財団法人古賀協会を那覇市に設立。 

その果実を沖縄県のスポーツ振興に寄与している。古賀善次氏がテニスの愛好家であったことが因縁のようである 
(年表119)。 
 一九九六年一月、古賀協会(会長栗原佐代子氏)は、石垣市八島町の小公園で父子二代、生涯を絶海の無人島 
開拓に捧げた稀なる業績を讃えるため『古賀辰四郎尖閣諸島開拓記念碑』を設立した(年表121)。 
 現在(一九九六年)尖閣諸島の固定資産税などは、一切栗原国起氏が石垣市に納めている。 




田中邦貴氏の「尖閣諸島問題」より

「明治政府は、彼に対してこれら4島を30年間無料で貸与した。古賀氏は、これらの島々に多額の資本を投下し、棧
橋、船着場、貯水場などを建設し、また、海鳥の保護、植林、実験栽培などを行ない、開拓事業を発展させた。この
古賀辰四郎氏が1918年に亡くなった後、その子息である古賀善次郎氏は、父の開拓事業を引き継ぎ、とくに魚釣島
と南小島でカツオブシ、海鳥の剥製などの製造を行なった。昭和元年(1926年)、古賀氏に無料で貸与していたこれら
の国有地4島の貸与期限が切れたために、政府はその後1年契約の有料貸与にきりかえたが、1932年、古賀氏が
これら4島の払い下げを申請してきたので、これを有料で払い下げた。現在民有地となっている魚釣島、南小島、北
小島、久場島の4島を、日本政府が年間約3000万円で所有者から借り上げている」




中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条に基づいて米国の
施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭和二十八年十二月二十五日の米国民政府布告第二十
七号により緯度、経度で示されています)に対して、従来なんらの異議をとなえなかったことからも明らかです。のみ
ならず、先に述べましたように、中国側は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和四十
五年(一九七〇年)以後はじめて、同諸島の領有権を問題にしはじめたにすぎないのです。げんに、台湾の国防研
究院と中国地学研究所が出版した『世界地図集第一冊東亜諸国』(一九六五年十月初版)、および中華民国の国定
教科書『国民中学地理科教科書第四冊』(一九七〇年一月初版)(別添1)においては、尖閣諸島は明らかにわが国
の領土として扱われています(これらの地図集および教科書は、昨年に入ってから中華民国政府により回収され、尖
閣諸島を中華民国の領土とした改正版が出版されています)(別添2)。また、北京の地図出版社が出版した『世界
地図集』(一九五八年十一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日本の領土としてとり扱われています。















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尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎氏のこと

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