尖閣諸島の領有権問題

senkaku−note・尖閣諸島問題 U
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3.2.4 日本一鑑 風水
 日本一鑑は、尖閣諸島の中国帰属を認めている証拠としてよく上げられる史料である。そう解釈できるのかどうか
検証する。 
  
   ☆小東島之小嶼 ――井上清批判
 井上清は、「釣魚嶼の史的解明」のなかで中国人方豪の研究を紹介して次のように述べている。小東島の小嶼と
いう記述を確認し小躍りしている。 
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一五 いくつかの補遺
 釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊す
る。(中略)私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和
所記釣魚嶼」という論文である。 
(中略)同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里
長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えてい
る。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それ
より釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とあ
る。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたと
はいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があ
り、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記
しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史
地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。 
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 明の太祖洪武帝が子孫に対する遺言として残した皇明祖訓のなかにおいて、小琉球(=台湾)は「不征の国」とさ
れていた。「未不曾朝貢せず」、「往来もない」とされている国である。それなのにこれを全く無視して、「領有権からい
えば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が
台湾をも管轄することになっていた。」と井上は書くのである。何を根拠としてこのようなことをいうのであろうか。 
 「釣魚嶼小東島之小嶼」とされているのだから、釣魚嶼は不征の国・小琉球の小嶼であると鄭舜功は理解している
はずである。日本一鑑はいわれているのとは逆に尖閣諸島が明領土ではない証拠となる。釣魚嶼が仮に小琉球の
一部だとしても、尖閣が明国の領土となるはずはないのである。鄭舜功は小東島を明領であるとは一言も書いてな
い。明領だと思うはずがない。「小東島之釣魚嶼」は「明領の釣魚嶼」を意味していると解釈することはできない。 
 仮に澎湖巡検司が存在したとしたとしても、小さな島、つまり枝葉の付属島嶼の方を支配しているから、何百倍も
広い幹の部分までも領土にしていたという主張は常識からみてもおかしい。このようなことがいえるのならば先島諸
島の第一島は台湾島であるとした方がまだしも説得力がある。このような主張は、国際法からみても、認められな
い。常識的にいっても無理である。 
  
  ☆日本一鑑の滄海図鏡――澎湖島とかけ離れている小東島 
 そもそも澎湖巡検司は当時、存在していたのか? 隋書、『元史』、大明一統志には澎湖島は琉球の山川として明
確に記載されていた。琉球の山川に、なぜ明国の巡検司がおかれるのか。とくに大明一統志は明代に成立してい
る。これは勅撰である。琉球国の山川として澎湖島があげられているのは決定的である。琉球国の山川に巡検司が
おかれるはずがない。誰がいつ巡検司に任じられたのであろうか? 
  
 澎湖島が小東島の側にあれば隣接地域を管轄しているとも考えられる。しかし鄭舜功は、澎湖島と小東島をかけ
はなれたところにおいている。日本一鑑の滄海図鏡をみればこのことはよくわかる。これは大小琉球の図である。沖
縄本島北西の海上に、鄭舜功は二つの嶼、つまり華嶼(=高華嶼)と??を図示している。鄭若曽の琉球国図と同じで
ある。だが澎湖島は省いている。澎湖島は華嶼の先に本来は描かれるはずである。なぜ脱落しているのであろう
か。それは澎湖島は大小琉球の内に入らないと鄭舜功がみなしたことを意味している。 
 桴海図経巻之一をみると、「自澎湖次高華次??次大琉球亦使程也」と鄭舜功は記している。『隋書』の記載そのま
まである。高華嶼の先に澎湖島があると鄭舜功も考えていることがわかる。それでいて図から省いたのは、やはり琉
球の外にあるとみなしたためであろう。しかし「小東島」は、琉球内にある島であるから当然この図に描かれている。
小東島と澎湖島は遠く離れていると鄭舜功は理解している。 
 澎湖とはこのあたりの海をさしているのであろう。鄭舜功は「澎湖之小東」というのを澎湖の中にある小東島という
意味で使ったのである。それですっきりと解釈できる。沖合遠くに花綵列島に属する島々が散在しているから、間の
海が、澎海ではなくて澎湖となっているのである。 
 この図に澎湖島が書かれていないことからみても、「澎湖之小東」というのが澎湖巡検司が管轄する小東島の意味
でないことが確認できた。繰り返すが、「澎湖之小東」という詩句は、「澎湖島巡検司の管轄する台湾」ではない。 
  
  ☆小東は小東洋であろう
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 /マテオ・リッチは 
 「坤輿万国全図」(明、万暦三十年・1602年)などの地図をつくったが、その地図では、赤道よりやや北、こんにちの
ハワイ付近の海中に「大東洋」としるされ、赤道の南の大洋洲の海中に「寧海」と誌してあり、日本の東方海中に「小
東洋」、ポルトガルの西方海中に「大西洋」、インド西方海中に「小西洋」と誌してある。(-46) 
   マテオ・リッチによって命名された「大東洋」「小東洋」および「大西洋」「小西洋」という海洋の名称は、その後の
一連の地誌――、たとえば、王土斤『三才図絵』(明、万暦三十五年・1607年自序、万暦三十七年・1623年刊)、
「職方外紀」(明、天啓三年・1623年自序)、『海国見聞録』等――にも、多少の差はみられるが、ほぼ近い名称で踏
襲されている。(-47) 
  ――明治のことば 東から西への架け橋 齋藤毅 昭和五十二年 講談社  
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 やはり小東は小東洋の意味であろう。この水域を指して小東とする表記を私は他にはまだみたことがない。台湾島
を小東島とする例も見たことがない。中国人の常用する対語表現からすると、小東島があれば、大東島もなければな
らない。しかし大東島は聞いたことがない。 
 小東は小東洋の意味であろう。小東洋とは西洋人の伝えた概念で、明代から清代に至るまで使われた概念であ
る。 
 鄭舜功の小東の定義は、当時の一般的な定義とずれている。なぜであろうか。これは、小東洋の小嶼というのを船
の中で聞いて、誤った理解をして書いてしまったものと思われる。小東というのを、小琉球と同じ意味を表すものだと
誤解し、つまり台湾を指すのだと理解してしまったのである。しかし小東洋とは、日本近傍の海を指す言葉だった。そ
の小嶼であると鄭舜功は聞いたのである。鄭舜功の見解が極めて特異なものであり、他に類例がないわけがわか
る。単なる誤解の所産にしか過ぎなかったのである。 
 鄭舜功は小東島彼云大恵国とのみ記している。この彼とは誰であろうか。特定の人を指すのではなく、そういう噂
があるということであろうか。鄭にそう話して聞かせた人が「小東」を日本をさす言葉として用いたのだとしたら、大恵
国はジパング伝説を思い出させる。台湾島を指して未開の蕃国と明人がいうのはよくみかけるが、大恵国というの
は、始めてである。意味がわからない。小東が日本の意味であったとするとすっきりと説明がつく。  

   ☆無位無官職の鄭舜功 
 日本一鑑は、鄭舜功が日本の地理や歴史など、日本関連の情報を整理し、流刑地で書きあげたものである。 
 鄭舜功とはどういう人物であろうか。 
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鄭舜功は新安郡の人である。彼は「布衣」つまり無官職の丙民で、平素から日本問題の研究に心をくばり、関心をよ
せていた。1555年、鄭は倭寇防備につき献策するためわざわざ北京に赴いた。その後、総督楊宜から日本へ派遣
された。 
−−中国人の日本研究史  武安隆/熊達雲 
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 鄭舜功は1555年4月、広東を発し、大小琉球をへて豊後の大友氏のもとに至った。1557年12月、大琉球をへ
て広東に帰国した。出発直後に、揚宣は失脚した。後任が胡宗憲である。鄭舜功は用いられるどころか流刑に処さ
れた。1565年、鄭舜功は日本一鑑を書上げて官に提出した。しかし反響はなかった。日本一鑑は公式の報告書と
いえるものではない。 
 楊宜との個人的な関係で派遣されたのだから、帰国した鄭舜功はたちまちもとの「布衣」にもどったのである。当時
の中国において、ただの「布衣」だということはその社会的影響力がほとんど無いにひとしいことを物語るのである。
鄭舜功は挙人でさえない。進士と挙人ではその社会的評価には天と地ほどの差がある。挙人とは、省の試験に合
格した人を指す。進士とは、その挙人のなかから更に、三年に一度の国家試験に通ったエリートを指す。この試験に
は挙人が二万人以上受験しに来ていたという。一回の試験で、うかる人は二百人から三百人しかいない。挙人どこ
ろか、全くの庶民であるということになれば……。 鄭舜功の文章は洗練されておらず、かなり雑であるから、ますま
す評価が低くなったであろう。内容もさることながら、名文であるかどうかが当時の中国においては大問題となる。値
打ちがほぼ決ってくるからである。日本一鑑が、一度も公刊もされなかったわけがわかる。 
  
  ☆知られていない日本一鑑
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「日本一鑑」は殆んど世に知られていなかったが、大正2年(1913)富岡謙三氏が偶またま乾隆帝の寵臣彰文勤旧
蔵の著を入手し紹介した。 
−−鎖国前に南蛮人のつくれる地図 中村拓 
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 日本一鑑は、写本の形でかろうじて伝わっていた。道理で史料に現れないわけである。歴代册封使は見たこともな
かったであろう。出発前に琉球関係の徹底的な調査をするのが慣例となっていた册封使が一度足りとも参考書目に
あげなかったわけがわかるのである。一言も言及してない。鄭舜功の社会的影響力は皆無に近かった。そしてそれ
が釣魚嶼を台湾島の付属島嶼とした唯一の古い中国史料である。解釈次第でそうとれるということではなく、明確に
「台湾の付属島嶼」と記しているという点では唯一の歴史史料なのである。それがこのようなものであることは大いに
問題である。井上清は日本一鑑が公刊もされなかった書物であるということには何等注意を払わない。 
「こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない」と井上清は述べたが、何一つ
発見されないままである。一つとして見いだされないのである。
 それにしてもたった詩一つ。それも公刊はされなかった書物のなかの詩の一節が決定的な意味をもつかのような
議論には困惑する。 
  
  ☆ 鄭舜功のみた釣魚嶼は釣魚嶼ではない
 鄭舜功は、本当に、尖閣諸島をみて釣魚嶼と認識したのであろうか? 
 彭佳山を鄭舜功は釣魚嶼と誤認したと思われる。 
 鄭舜功は台湾北端をみてからすぐに魚釣島に達している。風次第で、これは可能であるが、しかしわからないのは
彭佳山が消えていることである。彭佳山をはじめとする半架諸島のどれかの島にあたるはずである。鄭はなぜそれを
見ていないのであろうか。夜というわけでもないから、見逃したはずはない。 
  
  ☆ 消える彭佳山、消える鶏籠嶼
 鄭若曽の琉球国図をみると小琉球の上に二列の島がある。瓶架山――彭家山は外の列をつくっている。鶏籠嶼―
―釣魚嶼――古米山の並びは内側の列をつくっている。 
 小琉球のすぐ上(=北)に鶏籠嶼があり、その上(=北)に釣魚嶼がある。釣魚嶼の前にあるのは鶏籠嶼のみのは
ずであった。鄭舜功は彭家山を、釣魚嶼の手前にある島とは考えなかった。当初の鄭舜功の理解は、小琉球――鶏
籠嶼――釣魚嶼だったのである。 
 そして、この鶏籠嶼が実地にたった鄭舜功の認識から消えてしまうのである。それにはわけがある。 
 臺灣北部には、「鶏籠山」といわれた「山」が三つあり、二つは島であるが、一つは台湾島上の山である。当時、鶏
籠山といった場合は、普通、台湾島上の鶏籠山の方をさしていたはずである。台湾島上の高い鶏籠山は航海者にと
ってよい目印となった。しかし小鶏籠嶼の方は基隆の港に入るのによい目標となるのであるが、琉球や日本にいく場
合に通常みることの出来ない島であった。従って知る必要のない島であった。明人も琉球に行くのは、他のところに
行くのは違い、途中寄港できる港がないとしていた。大鶏籠嶼は小鶏籠嶼よりも更に陸地に近く基隆港の入口にあ
る。 
 鄭舜功は鶏籠山を台湾島上にある山とみた。他に鶏籠嶼があるとは思わなかったから、鄭舜功は図から鶏籠嶼を
消したのである。すると釣魚嶼が台湾島のすぐ近くにくることになる。鄭はそう認識したはずである。 
 日本一鑑の滄海図鏡の図では、鶏籠嶼が台湾島上にある鶏籠山となり、島としては消えていることがわかる。そし
て釣魚嶼が小東島のすぐ上に描かれている。鄭舜功は、台湾島上の鶏籠山を見て、次に見える島を釣魚嶼であると
みたのである。 
 万里長歌には「鶏籠上開釣魚目」という一節がある。これは台湾島上にある鶏籠山から釣魚嶼を望むことができる
という意味であろう。 
 先述したように、滄海図鏡をみると鶏籠山(台湾島上の山)のすぐ上(=北)に釣魚嶼があるように作図されてい
る。鄭舜功は図を描きながら、詩を詠んでいる。 
 鄭舜功が、来日するために乗った船は広東からでているので広東船である可能性が高い。鄭は言葉は余り解らな
かったに違いない。帰り着いた後、鄭若曽の図や針路の条を参考にして見聞を整理しながら、鄭舜功は日本一鑑の
図を記したのであろう。 
 釣魚嶼と黄麻嶼は相望む関係にある。直ぐ隣りにある島々なのである。しかしこの二島は四更離れていると『籌海
図篇』に記されていた。二島が離れていると鄭舜功も誤認したのである。釣魚嶼からしばらく行き黄麻嶼があると考
えていた。このため彭佳山が消えても、数の上でつじつまがあってしまったのである。つまり彭佳山を釣魚嶼とみて、
尖閣諸島を黄麻嶼とみたのである。 
 小東島――釣魚嶼――黄尾嶼――赤坎嶼――姑米山という順番で島が並んでいると、鄭舜功は認識してしまっ
たのである。 
  
  ☆ 鄭舜功のいう釣魚嶼は彭佳山である
 鄭舜功が釣魚嶼とした島は、釣魚嶼ではなく、やはり彭佳山であろう。そして鄭舜功が黄麻嶼だと思ったのは尖閣
諸島だったのではないか。間違いなくそうである。 
 鄭舜功は彭佳山を釣魚嶼と誤認したのである。このため彼の認識のなかでは釣魚嶼は台湾島に異常に接近する
ことになった。鄭舜功は、図のなかにおいて釣魚嶼を臺灣のすぐ側にかきこんだ。しかしこれにより、尖閣諸島が小
琉球の属島であるということはいえない。  
☆一つの界 
 日本一鑑でも、「七島者在日本南為琉球日本之界」とはっきりと(よくみていくと、これでも実は、「一応」ではある
が)日本と琉球の界を示されている。ところが琉球と明国(中国)の界は、またしても明示されていない。隣接してい
ないからである。 
  
 ☆ 小東島之釣魚嶼=大琉球之黄麻嶼 
 万里長歌の「小東島之釣魚嶼」の意味をもう一度考えてみよう。 
 先述したように日本図纂や籌海図編では、釣魚嶼の次にある黄麻嶼から「至る」という言葉が那覇まで使われてい
た。鄭舜功も黄麻嶼から至ると書く。鄭若曽の見解を追認したのである。鄭若曽が黄麻嶼に至ると書いていることを
鄭舜功は知っている。この至を、黄麻嶼から大琉球の島であると鄭舜功も理解した。だからこそなお釣魚嶼は小琉球
の小嶼であると認識しやすかったわけである。 
 二人の鄭は小琉球と大琉球の境界を釣魚嶼と黄麻嶼の間においていたのではないか? いや間違いなくそうであ
る。釣魚嶼は小東島の小嶼なりというのは、黄麻嶼からは大琉球島の小嶼なりということでもあった。いうまでもない
ことだが、注意しなければならないのは、明と琉球の界をここに認めていたのではないということである。鄭舜功は、
勿論、隣接していない大琉球と明との界を示すことは出来なかった。 
 
  ☆ 風水
     ☆?から日本へ通ずる地脈 ――風水家鄭舜功の特異な思想 
 当時、半架諸島や尖閣諸島は、どこに帰属すると考えられていたのか。当時の人にとってどう見えたのかということ
は、当時にかえって考えてみなければならない。現代の地理学ではなく、当時の風水でみてなければならない。風
水は当時は、「地理」ともいわれていたという。風水を知ると、半架諸島や尖閣諸島の帰属がどう考えられていたかを
はっきりと判断できる。 
 
  ☆ 鄭舜功の風水  
 鄭舜功は風水の影響を強く受けている。風水家というべきである。しかし特異な風水家である。 
 「日本一鑑」の窮河話海の巻一地脈をみると、鄭舜功は小東島から北にも南にも地脈が続いているという。「釣魚
黄尾赤坎姑米馬歯」を経て大琉球にも及んでいるという。日本列島にも琉球をへて?から気脈が通じているという。鄭
舜功のいうことは他に類例を見ない特異な考えである。中国と琉球の地脈が通じていると書かれた典籍を他に見た
ことがない。ましてや中国と日本は地脈が通じているというのは、空前絶後であろう。ただ琉球と日本は隣接してい
る(=地脈が通じている)と当時、理解されていたことは間違いない。このことは陳侃が報告したようである。とすれ
ば、琉球まで中国から地脈が通じていると鄭舜功が考えれば、後は自ずからそうなるであろう。 
 鄭舜功は福州から小東島に地脈が通じ、そこから更に半架諸島から尖閣諸島をへて琉球島に至るというのであ
る。 
 
  ☆ 風水とは何か。
 風水は、当時の「地理学」であった。これをきちんと考察しなければならない。 
 風水論集−環中国海の民俗と文化4 (渡邊欣雄・三浦國雄編)から引用する。 
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 「風水思想の根幹を成している思想の一つに龍脈思想がある。龍脈とは、山の起伏の連なりをいう。この龍脈を生
気が流通していると考え、その源を崑崙山としている。崑崙山はおおよそ中国の西北に位置し、天帝の下都とされて
いる山であるが、これを天下の山の祖とみなし、ここから世界に向け五条ないし四条の龍脈が発しているとするので
ある。」 「中国は崑崙の東南に在り、天下の山は崑崙を祖とする。惟三幹脈が中国に分かれ出るのみである」、(中
略)中国内に延びている三条とは、北幹、中幹、南幹である。三幹脈の流れは黄河、長江の二大河川によって分け
られ、北幹は黄河より北側の地域を通り、朝鮮半島にまでいたる。北京市、天津市などにはこの北幹が通じている。
朝鮮半島には、最北の白頭山に通じ、そこから半島全域に龍脈が通じているとしている。中幹は黄河と長江の間の
地域を通っている。(中略)南幹は長江より南側の地域を通っている。香港、広州、福州、南京、蘇州、杭州、上海な
どの都市にはこの南幹が通じている。さらに福建省からは、台湾海峡を渡り台湾島にも龍脈が通じているとされ、福
州、五虎門から台湾島北端の鶏籠山(現基隆山)に至るとされている。 
 これら三幹脈のうち、南幹については、清代の地方志にその脈絡と風水との関係について割合多く記されてい
る」。 
「三幹を主脈にそこからの支脈がさらに支脈を生じ、中国全土にわたって網目のように龍脈が張り巡らされており、…
…この龍脈に沿って流れる生気に浴することで、吉福が得られるというものである」。この龍脈は「あたかも母胎のへ
その緒と胎児との関係のようなもので」ある。 
  
  ☆ 龍脈も水に界されて止まる。 
「龍脈が水に界されて止まるのなら、なぜ孤島となっている台湾島や香港島にまで、龍脈は通ずることができるので
あろうか。はるか崑崙山から紆余曲折しながら千万里もの道程を伝い来る龍脈が、真の脈であることの証明の一つ
として、龍穴に結ぶ前に、集束した細長い形の部分を通過することを必要とする。「渡水峡」があり、「渡水峡は水中
に石梁の有るを要す、これを崩洪脈と謂う。水は石脈を界さず、土脈を界する」とあるように、水中に飛び石のようにな
った石脈は、水によって界されることはなく」 
「中国東南部の都市のほとんどは、この主山を持っており、地方志には、この主山までどのような経路で龍脈が到達
しているかが記されている」 
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  ☆ 南幹
 福建には「南幹」という龍脈が崑崙山からはるばる至っているという。 
 中国人の伝統的な地理認識にはすでに見てきたように大きな混乱がある。しかしやはり支配的なのは、中国と琉
球は大海を隔てているとする考えである。歴代皇帝の認識はそうであった。地脈は断たれていて通じてはいない。南
幹は明代には福建沿岸にとどまっている。その後も、一度として、琉球に向かっては延びているとはされなかった。 
  
  ☆ 北幹 
 朝鮮にも、龍脈が至っている。北幹である。これは中国人だけではなく、朝鮮人も認めている。龍脈は中国から朝
鮮のすみずみにまで及んでいる。 
 地脈が通じているというのは国が隣接しているという意味になる。正確に言うと隣接しているという認識がみられる
という意味になる。韓国と日本は隣接しているが、地脈が相互に通じてるという認識がない。遠い国の関係である。 
 しかし韓国から日本に龍脈がいたるという見解を述べる韓国人はいない。日本人もいない。中国人もいない。 
  
  ☆ 台湾に至る南幹
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 「台湾の山の形勢、福州五虎門より蜿蜒と海を渡り、東に行き、大洋中の二山、関同、白犬に至る。これ台湾諸山
の脳龍処なり。波濤に隠れ伏し、海を穿ち大洋を渡り、台湾の鶏籠山に至る」 
――台湾府志 高拱乾修 巻一 封域志 山川 台湾府山(清)・康煕三十五年刊本 
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 これは清代の風水である。 
 白犬島は官塘の南にある島であり、台湾島とはかなり離れている。しかし、龍脈は福州からここへ達しているとさ
れた。そして南幹は更にのびて台湾島北部に至っているのである。澎湖島へは南幹は福建から直にのびておらず、
回り道をして至っている。 
 この鶏籠山は鶏籠嶼のことではない。台湾島上にある鶏籠山である。 
 清代になり台湾が領域にはいるにつれて台湾島にも?から地脈が通じているとする説が起きた。しかしこういう考え
は明代にはみられない。鄭舜功は特異な例外である。明代の風水図には台湾島は勿論記されていない。それは
「東番諸島」であり、明の領域外にあるかかわりがない島である。小琉球は不征の国であった。 
  
  ☆ 大琉球には至らない南幹 
 尖閣諸島が中国の一部であれば必ずここに南幹が通っているということになる。そのように言及する史料は皆無で
ある。とくに風水関係の史料にも全く記されていない。 
 隣接していれば界が生ずる。界があれば隣接しているわけである。 
 赤尾嶼と久米島の間に界があるのならば、つまり赤尾までが中国領であるということは、赤尾まで龍脈が来ている
ことを意味する。ここまで南幹の龍脈が達していることになる。そして脈は更にのびるはずである。順風半日で久米
島にまで達するのであるから。脈がとぎれるはずがないのである。更に那覇まで至るのが当たり前である。 
 風水は中国全土で流行っていた。特に東南部においては大流行していた。福建もその流行の中心地の一つであっ
た。著名な風水師の多くは東南部の出である。もし久米赤島までが明領であるという一般的認識があれば、風水の
書(とくに福建で刊行された)に一度も書かれないということはありえないのである。福建省の地方志にも必ず、その
地の主山が記されている。 
 やはり中国にはこれらの岩島を領土としているという一般認識はないのである。領土としているのであれば、必ずこ
こからさらに南幹が琉球島まで至っていると考えたはずである。 
  
  ☆ 琉球の人々の見解
 琉球にも、風水はかなり根づいている。にもかかわらず中国から琉球まで地脈が通じているというように琉球の
人々が記載した例は皆無である。唐営の人々もそのようにはいっていない。風水家としても知られた蔡温もいわな
い。しかし日本と琉球は地脈が通じていると再三、琉球の人々は記している。蔡温もそういう。 
  
  ☆ まとめ
 ?から琉球に地脈がいたるという記述は、明清のどの册封録にも全く見られない。 
 册封使は誰一人として風水には関心がなかったとみることができようか。しかし册封使だけが書いていないのでは
ない。 
 明代において、琉球に?から地脈が通じているとする説はみられない。 
 清代になっても龍脈が福州から大琉球へ通じているという発想はみられない。台湾から大琉球へ続いているという
発想もみられない。ただ臺灣に南幹の龍脈が至っているという記載がよくみられるようになる。 
 中国から琉球へ龍脈が達しているという日本人も中国人もいないのである。唯一人の例外が鄭舜功なのである。 
 福州や台湾から龍脈が尖閣諸島や半架諸島に至ると風水家が記載したことはない。勿論、領域にも入っていない
これらの島に、龍脈がいたるはずがない。やはり福建所属の島嶼ではないのである。台湾府の付属島嶼でもない。 
 風水からみても、半架諸島や尖閣諸島が中国領として考えられていなかったという認識が一般的であったという事
実が判明する。尖閣諸島が中国領であるということが周知の事実であるということはないのである。 




3.2.5.3 汪楫                                            
 汪楫の界についての認識を検証しよう。汪楫が著した使琉球雑録には、かの有名な「中外の界」の記述がある。こ
れが尖閣諸島の中国帰属を示す有力な証拠としてあげられているのである。しかし、汪楫の著した正式な報告書で
ある「册封疏鈔」のなかにはこの記述はない。なぜかここのところだけが省略されている。この意味するところは重要
である。雑録という題は、皇帝への復命書として差し出すものにつける名であるはずはない。これは報告書ではない
のである。しかしそのことについての分析はは後回しにして、まずは「使琉球雑録」を詳細に検証してみなければなら
ない。 
  
  ☆ 遂至黄尾嶼 ――汪楫はどこを果てと認識していたのか 
 使琉球雑録巻五「神異」をみてみよう。航路を記す巻に「神異」と名づけるというのは、この航海が神秘的な力に助
けられたという汪楫の認識を示しているようである。この雑録には彊域の巻もあるが、そこには中外の界は記されて
ない。これは後述する。 
  
   ☆ 過――遂過――遂至 
 汪楫は次のように記している。 
 二十四日天明見山則彭佳也不如諸山何時飛越辰刻過彭佳山酉刻遂過釣魚嶼舩如凌空而行時復欹側守備請循
例掛免朝牌許之浪竟平二十五日見山應先黄尾後赤嶼無何遂至赤嶼未見黄尾嶼也 
  
 井上清は以下のように訳している。 
*************************************** 
 二十四日天明に及び、山をみれば則ち彭佳山也……、辰刻彭佳山を過ぎ、酉刻釣魚嶼を遂に過す。船空を凌ぐが
如くして行く…… 
 二十五日山を見る、応さに先は黄尾後は赤尾なるべきに、いくばくも無く赤嶼に遂に至す、未だ黄尾嶼を見ざる也 
――釣魚諸島の史的解明 井上清 
*************************************** 
 この直ぐ後に「中外の界」という有名な記述がある。まずは順序に従い、上記の「過――遂過――遂至」という部分
から分析する。汪楫がどこを琉球の果てと認識していたかをこれにより知ることができるからである。 
 何度もいっていることだが『籌海図篇』には至黄尾嶼となっていた。那覇まで続く至の連鎖がここから始まる。 
 汪楫は『籌海図篇』を非常に重視していた。汪楫は、琉球への旅に三つの航路図を持参した。そのなかでは、鄭図
(つまり鄭若曽の日本図纂から抜出した針路図)を頼りにしているのである。繰り返しいうが、鄭若曽の見解を汪楫
は最も重視していたのである。鄭若曽のように至黄尾嶼といいたかったのだと思われる。ここが琉球王国の果ての
島だとみていたのである。 
「應先黄尾後赤嶼」「無何遂至赤嶼未見黄尾嶼也」として、汪楫が不審を感じたのは当然である。 
 汪楫が琉球領の果ての島であるとみたのは、実は黄尾嶼であった。上のところをよくみていただきたい。彭佳山を
過ぎる、釣魚嶼を遂に過ぎる、そして赤尾嶼に遂に至るとなっている。遂過釣魚嶼。遂至赤尾嶼。 
 釣魚嶼を「遂過」という表記がされていることの意味をよく考えねばならない。彭佳山は「過」とだけある。そして「遂
過」の次は「遂至」がつくわけである。だから本来は、黄尾嶼のところで遂に至ると書かれたはずであることはここを
みてもわかる。遂過というのは、次に、遂至と使いたかったからである。 
 汪楫は釣魚嶼の次には黄尾嶼があり、それから赤尾嶼があるという認識をもっていた。
 事後的に、釣魚嶼に「遂過」がついたと考えられるであろうか?赤尾嶼で遂に至ると書いたために、その手前で見
た釣魚嶼に遂過をつけたと。 
  
  ☆ 釣魚嶼を遂に過ぎ、掲げられる免朝牌
 汪楫は、船にのっていた武官の長=「守備」が、釣魚嶼を遂に過ぎたまさにそのときに、そこで例に従って免朝牌を
かかげたいといったと記している。 
 免朝牌とは何であろうか。張学礼の使琉球紀に初めてでてくる。思うに「免朝」とは対面しないという意味であろう。
船の頭のところにつけられる牌である。顔が記されている。魔除の意味があるものと思われる。何となくシーサーを思
わせるところがある。にらみをきかすつもりではあろうが、どちらも何となくユーモラスである。 
気になるのは、「例に従って」といったということである。しかしそうした先例は、册封録のなかでは一度しか見たこと
はない。言葉を、吟味せずに受入れてはならない。 
 天候も怪しくなり海が荒れたときに、張学礼は免朝牌を掲げさせ、祈りを捧げている。しかしその場所ははっきりし
ない。張学礼は免朝牌と同じ図柄を紙にも書き、繰り返し、海に投入れた。そして魔を退散させることに成功した。こ
れが唯一の先例のはずである。その免朝牌を、汪楫の伴った武官は釣魚嶼を過ぎたところでなぜか掲げたのであ
る。まだ海が荒れたわけではないのにそうしたのである。武官が有名な海防書である『籌海図篇』を読んでいないは
ずはない。黄尾嶼の手前で(=琉球領に入ろうとする直前で)、わざわざ掲げさせたことは間違いないはずである。次
は黄尾嶼である。「敵地」に入る直前に掲げたとみることができる。(こう書くのは、ここで行われた儀式が、空前絶後
の儀式だからである。それは後で分析する) 
 「遂過釣魚嶼」となっているのは、琉球界の黄尾嶼の一つ手前にある島だからという武官の認識を反映しているも
のでもあるととるべきである。 
 やはり(遂至)の赤尾嶼の一つ手前で釣魚嶼をみたから、事後的に「釣魚嶼を遂過す」とされたのではない。 
 だが武官の地理的認識は、極めて曖昧なものであり、大小琉球の区別さえはっきりとはついていなかったろうと思
われる。だが至黄尾嶼という記述から、彼等は琉球の領域を判断したのである。それと沖には、海の荒れるところが
あり、そこを溝というと彼等は認識していたのである。この二つを急遽、重ね合わせて「中外の界」であると理解した
のであろう。 
  
  ☆ なぜ黄尾嶼は消えたのか――なぜ至赤嶼となっているのか?  
 汪楫や郭汝霖はなぜ黄尾嶼をみることが出来なかったのか。黄尾嶼を見なかったために彼等は、赤尾嶼において
至と書いた。通常のコースを通っていれば、釣魚嶼がみえれば、必ず黄尾嶼もみえるはずである。二つの島は相望
む関係にある。その上、黄尾嶼の方が北にあるのである。「北過」するのに、見えないのは不思議である。実は釣魚
嶼を南過したのではないかとも考えられるところである。しかしやはりそうではないであろう。 
  
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 1970年12月、魚釣島に滞在し最高峰に登る。黄尾嶼が見える。(-5) 
――東支那海の谷間――尖閣列島 
 九州大学・長崎大学合同尖閣列島学術調査隊報告 1973年 
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島の北岸近くには、平らな岩礁が広い範囲に渡って展開している……海岸林のふちには岩盤上にのべひろげられた
砂浜が点在……この平地から北小島南小島が間近にみられ、また北方にある黄尾島の姿もはっきりとみえる。 
――東支那海の谷間――尖閣列島 
 九州大学・長崎大学合同尖閣列島学術調査隊報告 1973年 
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 李鼎元も釣魚台と赤尾嶼しかみていない。斉鯤の記録にも「十三日天明見釣魚臺従山南過乃辰卯針行船二更午
刻見赤尾嶼」とされる。やはりなぜか黄尾嶼が消えてしまうことがわかる。 
 それにはちゃんとした理由がある。黄尾嶼はほぼ一貫として中国の史料には釣魚台から四更離れているとされて
いる。『籌海圖編』の曖昧な書き方が、この誤解を招くもとになっている。しかし、久場島と魚釣島が隣接していて相
望む位置にあることは疑う余地がない。四更離れていると思いこんでいるから、黄尾嶼が消えるのである。黄尾嶼は
釣魚台から東に四更離れているはずだが、そのような位置には島は存在しないのである。当然、その島を見ることは
できない。 
 次に見えるのは赤嶼である。 
 琉球人の夥長が一々、説明しなければ、久場島・魚釣島はまとめて釣魚嶼(釣魚台)と理解されてしまうはずであ
る。釣魚嶼と黄尾嶼は相望む関係にあるし、一々区別する必要はないからである。 
 汪楫や郭汝霖や李鼎元や斉鯤は黄尾嶼を見てはいるのだが見たと認識することは出来なかった。 
 他の册封使の使録のなかにも針路の条で釣魚嶼から黄尾嶼は四更離れていたと記されているものがある。先例
にならい見てもいない島を記すのである。李鼎元は一般論ではあるが、みてもいないことを書く役人を痛烈に皮肉っ
ている。 
 汪楫や郭汝霖や李鼎元や斉鯤はみてもいない島は書かなかったのである。 
  
  ☆ 中外の界を汪楫は認めたのか?
 いよいよ「中外の界」の記述について分析してみよう。先に分析した「遂過」ー「遂至」という記述の後に、でてくるの
である。 
 井上清は、赤尾嶼と久米島の間に界がある決定的な証拠としている。 
 二十四日天明見山則彭佳也不如諸山何時飛越辰刻過彭佳山酉刻遂過釣魚嶼舩如凌空而行時復欹側守備請循
例掛免朝牌許之浪竟平二十五日見山應先黄尾後赤嶼無何遂至赤嶼未見黄尾嶼也薄暮過郊#或作溝#風濤大作
役 生猪羊各一溌五斗米粥焚紙舩鳴鉦撃鼓諸軍皆甲露刃俯舩作禦敵状久之始息問郊之義何取曰中外之界也界
於何辨曰懸揣耳然頃者袷當其處非臆度也食之復兵之恩威兵濟之義也過赤嶼後接圖應過赤坎嶼始至始米山 
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 二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄
暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ
鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷ニ伏シ、敵ヲ禦グノ情ヲナス。之ヲ久シウ
シテ始メテヤム。 
 そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相
手が答えた。「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。汪楫は重ねて問うた。「界ハ何ニ於テ辯ズ
ルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ
頃者ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」(-36) 
――釣魚諸島の史的解明 井上清 第三書館 
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 赤尾嶼を過ぎて「中外の界」があると聞かされた汪楫は、述べた人に対して質問をおこなっている。尋ねた相手は
兵役を指揮していた武官であろう。この儀式をとりおこなった指揮官に、意味を問うのが当り前である。なぜか名前ど
ころか役職もふせられている。当時、華夷の別をいうことは大きな問題であったからであろう。この武官は中外の界で
はなく華夷の界といったのではないかとも思われる。清国皇帝は漢族がこの華夷をいうことには極めて神経質となっ
ていた。満州族が夷とされていたからである。相次いで文字の獄を引き起こしている。処刑された者は多い。しかし、
当面の問題とは余り関係がないので、今は、これ以上の考察は省略することにする。 
 汪楫には中外の界がここにあるという認識が聞かされる前には全くなかった。だからこそ理由を聞いたのである。
赤尾嶼が中国領の果てであれば、その先には琉球領しかないはずである。琉球領の手前の島が中国領の果ての
島になるのであろうから。赤尾嶼の先の海が界の海であることは明らかである。いうまでもないことである。「界ハ何
ニ於テ辯ズルヤ。」と問うたりするはずもないであろう。遂至赤尾嶼が中国領の果てに至るという意味であるはずが
ないのである。 
 しかし黄尾嶼を琉球領の果ての島であると汪楫が認識していたとすれば、「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」と驚き問う
のもわかるのである。なぜ赤尾の先に中外の界があるのか? 先にあるのが黄尾嶼で、それから赤尾のはずだと汪
楫が戸惑っているのがわかる。 
 しかも質問に対する武官の答えが極めて変である。推量するのみなどとされている。界をなぜ推量しなければなら
ないのだろうか。「でたらめではないが推量するのみ」といわれても困る。これでは判断の根拠が示されていない。来
歴を史書をあげて説明したりすることもない。だから汪楫は単に記載しておいただけである。 
 これを刑事事件だと考えてみよう。例えばどこのだれともわからない人間が、あいつが犯人だといった。なぜなのか
ときくと、推量するだけだが、間違いありませんとのみ答えた。どうしてこのようなものが証拠となるのか。 
 汪楫は推量するのみという答しか聞けなかった中外の界を使琉球雑録の「彊域」の条には記さなかった。汪楫の認
識が変化したならば、彊域のところで、必ず書かれるはずである。界に触れずに彊域について記すことはできない。
このことから見ても汪楫は単に書き留めただけである。「神異」という巻の中に。 
 日本一鑑においてみられた特異な思想(琉中は地脈が通じている)と汪楫の記載にある「中外の界」は、相通ずる
観念である。勿論、これらは違う次元のことをいっているわけである。しかし、ここに中外の界があるというのであれ
ば、琉中は隣接しており、つまり地脈が通じていることになるではないか。論理的にみればそうなるのである。これま
た特異な例外的史料ということになる。特異な少数史料の一つである。それも史料全体をよくよくみると、「矛盾」が
みられるというのもまたいつもの通りである。 
  
  ☆ 「册封疏鈔」には中外の界はない 
 汪楫の編纂した「册封疏鈔」をみると「中外の界」についての言及は先述した通り欠落している。これには驚かされ
る。 
 雑録よりも、疏鈔の方がより重要な典籍である。 
 「册封疏鈔」は康煕二十一年六月十一日に完成している。册封関連でやりとりされた公文書を汪楫がまとめたので
ある。使琉球雑録よりも二年も前に編纂されている。 
 疏は「一条ずつわけて意見をのべた上奏文」のことである。鈔とは「もとのものからうつしとって控えとする書物や書
類。ぬきがき。うつし。〈同義語〉・抄」である。疏鈔とは上奏文の写しということになる。 
「册封疏鈔」には皇帝の印もおされている。皇帝の手元に差出されたものであろう。こちらの方が公式の報告書であ
る。 
 考えてみれば、雑録というのは皇帝への報告書につける題ではない。私的記録を意味するものであろう。 
 「册封疏鈔」のなかに「春秋二祭を乞う題本」というものがある。天妃の加護により、稀にみる奇跡的な平穏な旅と
なったと感謝する奏本である。大恩ある天妃を春秋二回祭って欲しいと奏上したのである。 
 これをみると琉球へ向う航路で起ったことが縷々示されている。使琉球雑録の神異に書かれたことと照らし合わせ
てみると、大体同じである。不思議にも、「中外の界」に関する部分だけが消えている。ここで異様な儀式をしたことも
消されている。根拠不明のことを皇帝への報告書に記すわけにはいかなかったのである。公式の報告書の方では、
省かれている「中外の界」にどれほどの意味があるであろうか。国境画定の場に持ち出すことができる史料ではな
い。 
 それに「中外の界」(=赤尾嶼と姑米山の間)と書いたのは汪楫の使琉球雑録が唯一あるだけである。意外である
が、はっきりと界を書いたものとしては唯一の史料なのである。そこに界があると類推できるという史料は他に二、
三、提示されているが……。 
  
  ☆ 赤嶼→赤坎嶼→姑米山 
 汪楫は鄭図をみて「赤嶼を過ぎるの後、図を按ずるに赤坎嶼を過ぎ、始めて姑米山に至るべし」として、赤坎嶼が
見えなかったと疑問を示している。 
 汪楫の基本的認識は、赤尾嶼――赤坎嶼――姑米山となっているはずである。 
 汪楫が赤嶼を明領の果ての島とみたのであれば、赤坎嶼を琉球領のもっとも東の島と考えたことになる。久米島が
果てではないのである。これでは明解な界を認識したとはいえない。界は赤尾嶼と赤坎嶼の間にあるのか。赤坎嶼
と姑米山の間にあるのか。中外の界があるとすれば、赤坎嶼は界のどちら側にあるのか。汪楫は答えられないであ
ろう。やはり汪楫はただ「中外の界」と聞いたままに書いただけである。(久米島と大正島の間に)界を認めたわけで
はない。汪楫の手元には現代の地図はないのである。彼が重視した鄭図には、赤尾嶼と久米島の間に赤坎嶼があ
った。 
 井上清は、現代の地図をみながら、汪楫が久米島と赤尾嶼の間に明確な界を認定したかのようにいう。しかし汪楫
の手元には、現在の地図はないのである。中外の界を汪楫がここに認定したなどということはない。事実ではない。
ここまであげていた様々な根拠にもとづいて否定できる。 
  
  ☆ 界外の台湾・琉球――溝でとりおこなわれる異様な儀式 
 外藩国はまがきだったのであり、中外一体のありさまが理想とされていたはずである。ところが汪楫の册封の際に
は、敵国に入るような物々しい儀式が行われた。生け贄をささげ、剣をふりかざした。恩威ともにあたうるの意なりと
いうが、これが天妃にたいしてとられる態度であろうか。この儀式は威嚇も加えている。儀式は戦いを思わせるもの
であった。天妃への篤実な祈りというものではない。 
 海神を祭ると思えない異様な儀式に汪楫はひどく驚いたのである。 
 陳侃をはじめとする歴代册封使も海神をこのように祭ったのであれぱ、必ず記したであろう。明代にこのような祭り
を册封の旅の途中でしたことはない。册封使はひたすら天妃に祈るだけである。助けをこい願うのである。 
 汪楫の見た儀式は似て非なるものである。この儀式は、異例なものであった。それは鄭氏に対して、つまり鄭氏の
支配する澎湖島や台湾に対して行われた儀式ではないか。汪楫来琉の年、清軍は台湾海峡の黒水溝を渡って鄭氏
を攻めたのである。そのときなされた儀式をこのときも、とりおこなったのではないか。 
                  
 周煌の琉球国志略には次のようにある。 
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 第三 封貢 
二十二年(一六八三年)、汪楫等は?に着いたが、まさに、一軍の兵が台湾を攻めようとしている時にあたり、遂に、
船を造る望みがないので、直ちに、戦艦を拾得して渡海した。(-134) 
――琉球国志略 平田嗣全訳 
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 汪楫は鄭氏攻撃のための戦艦を徴発して琉球に向ったと周煌は述べている。これでは乗込んでいた武官が大小
琉球を混同していてもおかしくはない。汪楫自身も出発前に、大小琉球を混同していたことも明かである。実際、船
は、台湾の方に向かったのである。これは流されたのではなく、武官がそちらに向かわせたのではないか。汪楫は
自力でいけると自信満々であった。琉球の人々を待たずともよいとした。そう皇帝に願い出ている。だから琉球の
人々に針をとらせなかったと思われる。汪楫は神秘的な存在が、霊夢に現れ、船が域外の台湾に流されていること
を告げたとしている。それに従い汪楫が進路を変えるように指示したと書いている。しかし実際は、琉球の人が告げ
たのではないか。夥長や迎接使は何のために乗り込んでいたのであろうか。台湾の方に向かっていれば驚くのが当
たり前である。汪楫は単独で行けるから、琉球の人々を待つ必要はないとしていたのである。めんつがからむ問題と
なる。琉球の人から助けを受けたことを省かねばならなかったのである。 
 しかもここでは域外台湾の方に流されているとされている。釣魚嶼や赤尾嶼が台湾の近傍に存在する付属島嶼と
みなされているのでであればなぜ域外などと書かれているのであろうか。つじつまがあわないのである。 
 それにしても様々なあり得ないような神秘的な出来事が使琉球雑録の中には、多々書かれている。怪力乱神を語
りすぎる汪楫のいうことを額面通りにとっていいのかどうか、疑問である。 
  
  ☆ 溝の義 
 使琉球雑録には、郊とかかれていた。そして或いは溝ともいうとされている。この「郊」とされる例を他にみたことが
ない。郊と溝は漢音では同音となるが、呉音では違う音になる。福建の言い方ではないと思われる。郊とはまがきの
外をさしており、溝とは意味が違う。溝とはある幅をもった「溝」であると考えられるが、郊はそうではない。 
 溝は、いつ頃からいわれはじめたのか、わからない。明代には、落?といわれていたが、これは水が下に落ちている
ところである。溝はそれに無関係ではない。しかし同じものを指すものと断定することもできない。しかし澎湖の近くか
ら落?に向かう流れがあることは明人も気付いており、諸書に記している。この流れを溝と捕らえるようにいつしかなっ
たと思われる。広義にいえば澎湖の近くから始まる流れも落?の一部である。溝は延々と延びているものととらえられ
ていた。この澎湖は現在の澎湖島を特定してさすのではなくて、このあたりの海に浮かぶすべての島をさしていたと
思われる。 
 奥原敏雄は、溝を異常潮流に過ぎないというが、それは溝が中外の界の意味であるということを否定するためであ
る。しかし溝は異常潮流ではない。 
 溝が中外の界であるという認識はどこから生じたのであろうか。 
 溝は、台湾海峡にあるものがよく知られていたようである。というのは台湾海峡はこの頃はかなりの中国船が航行
する海となっていた。しかし琉球航路はさびれていた。琉球の貧しさのために、中国船がやってこないのである。台
湾海峡も荒々しい海である。台湾海峡にある赤水溝や黒水溝は海の難所とされていたようである。海の荒れるところ
が溝とされていた。武官は台湾海峡にある溝について知っていた。それは海の荒れるところであり、その向こうに
は、大小琉球が存在していた。琉球=外である。溝がしきりのようなものとして、とらえられるようになるのも無理は
ない。溝をこえればあちらに行ってしまう……と。 
 沖に出て海の難所に遭遇すると、そこを溝と呼び、その向こうを危険な「外」、手前を安全な「内」としたのであろう。
極めて漠然としたものである。 
 澎湖島について中外の関といわれるのも同じことであろう。これは小琉球を外とみなしていることになる。古くは中
外の関ではなくて、中外の界といわれていたはずである。 
 汪楫来琉の際に、海が荒れたところで、始めてきた武官は溝を認定したのであろう。そのあれたあたりで、『籌海図
篇』においては「至黄尾嶼」となっている。つまり琉球国に至とされているのだから、その手前は内であり、その向こう
が外であるとこのとき認識してもおかしくはない。 
 そもそも中外の界が広くいわれていたとしたら、台湾海峡の黒水溝が、中外の界といわれていたはずである。その
溝は更に大琉球に向かって延びていると考えられただろう。その知識を大琉球に対しても、拡張したのではないか。
海が荒れるところをみて、中外の界としたのであろう。 
 册封船に乗る武官は、兵役を指揮して、大小琉球の区別もつかず、黒水溝のむこうにあるのは敵とみるかのように
儀式をおこなったのではないか。明代においても大琉球も小琉球も「外」にあったのである。溝の向うにある敵地に対
して威嚇の儀式を執り行っても不思議ではない。溝がこのとき大琉球の手前の海にも発見されたということに 武官
は、どうしてここが界なのかと聞かれて理由を汪楫に、説明できなかったのであろうか。漠然とした知識しかなかった
からである。彼等は台湾海峡にある溝について聞いていた。それは海の荒れるところであり、その向こうには、小琉
球が存在していた。その知識にもとづいて答えたからである。彼等は汪楫が、台湾海峡を渡ったとしても、同じように
溝の義をとわれたら、同じように答えに窮したであろう。理由は答えられないが、でたらめではないと、同じように答え
たであろう。 
 溝を中外の界というのは大小琉球を外にあるものと認定したことになる。彼等は台湾を界の外にあるとみていたこと
がわかる。台湾が内にないことの証拠となってもいるわけである。溝の義を問う、曰く中外の界なりというのであれ
ば、台湾海峡に現れる「溝」は何を意味するのであろうか。結論にあわせて都合のいいところを切り取ってはいけな
い。また結論にあわせて、都合のいいように解釈してもならない。 
 斉鯤は、釣魚嶼の南を通り過ぎていると思われる。また明代初期の琉中航路は、尖閣諸島の南を通っていたと思
われる。この場合、溝を越えるのは、尖閣諸島の手間になってしまう。もしかすると武官はこのことを知っていたのか
もしれない。斉鯤が書いたとすれば、釣魚嶼の手前で、溝を越えたことになるはずである。 
 黒水溝は澎湖の東西に二つあり、他に赤水溝もあった。このように多数の溝が発見されたのは、行き来が激しくな
ってからのことである。だから単一の溝があり、それが中外の界といわれたのは、古い時代のことではないかと思わ
れる。 
しかしこのような認識は特異なものであり、他に例がないものであった。 
  
  ☆ ティンガナシー(琉球王)は中外の界を認めていたか? 
 どこの誰ともわからない男がいった中外の界をこれ以上、論ずるのもはばかられるが、仮にあったとすれば、このよ
うな中外の界をティンガナシー(琉球王)は認めていたのであろうか。 
 中山王尚貞が中国皇帝に対して出した謝恩疏の一例をみてみよう。これは康煕二十二年(1683年)のものであ
る。ティンガナシーが中国皇帝に対して謝礼した文書である。汪楫等を派遣し、册封の義を執り行わせてくれたことに
礼を述べている。 
 (周煌琉球国志略 巻十五芸文より) 
*************************************** 
臣の国は海東に僻在しており、中国から道理を以て測ることの出来ない遠い所にあります。往時は、封舟の出帆に
は、惟だ、西南風を恃みにして行くだけで、航海の中途には全く停泊する処がありません。……五虎門から開洋し、
三昼夜で小国に達したのは、今までにあったためしがありません。臣が差わした太夫・通事・夥長は封舟の航海を迎
護し(-392) ――琉球国志略 周煌 平田嗣全訳 
*************************************** 
 どうみても、赤尾嶼と久米島の間にある中外の界を認めていないことは明らかである。琉球は「中国から道理を以
て測ることの出来ない遠い所にあり」というのがティンガナシー(琉球王)の言である。明清代を通じて、再三再四、同
じようなことが言及されている。 どこの誰ともわからない人間が、どういう根拠でいったのかわからない中外の界に
決定的な意味があるとすることはできない。そのような発言を中国皇帝やティンガナシー(琉球王)の言葉よりも上に
置く意味がわからない。 
  
  ☆ 琉球の水先案内人が乗り込む水域
 先述した通り、汪楫は琉球人の助けは必ずしもいらないと考えた。しかしそれに対する礼部の回答をみれば琉球の
水先案内人と迎接使の乗込みを必須としていることがわかる。汪楫は貢使をまたなくてもよいという許可を皇帝に求
めたのだが、得られなかった。皇帝が、この水域は琉球の水域だと認めたのである。どこの世界に他国の水先案内
人なしにはいけない自国領土というものがあるだろうか。 

*************************************** 
 封貢 汪楫等は七箇条のことを疏陳した。(中略)一は、渡海の時期は必ずしも貢使を待たなくてもよい。(後略)(-
134) 
――琉球国志略 周煌 平田嗣全訳 
*************************************** 
 ティンガナシー(琉球王)は、迎接使と水先案内人を福州まで派遣したのである。彼らは册封船に乗込み、册封使
を迎護して戻ってくる。貢使がついでに乗込むのではない。誤解である。いや渡海が琉球に依存していることを汪楫
は中国の威厳にかかわるとして恥ずかしく思ったのかも知れない。 
 清代においても以後の册封使も必ず琉球人の水先案内人と迎接使を伴った。 
 再三いうが水先案内人が乗込むのは相手国水域に入ってからである。琉球の迎接使と夥長が册封船に乗り込む
のは、すぐに琉球の水域に入ることの歴然たる証拠である。 明清に赴いた琉球使節にも明清の役人が同伴した。
福州から北京、北京から福州に向かう旅においてである。自国領域を勝手に行き来させることは出来ないからであ
る。案内や警護のためにつくわけである。 
 汪楫が水先案内人なしで進入できると思ったのは、海道の研究を書物でしていたからであろう。陳侃以来の册封
録を詳細に読んだためであろうが、琉球の海は暗礁も多く、流れも複雑でとても危険である。天候も変わりやすい。
実地を知らない知識人らしい。 
 先述したように、汪楫は、澎湖島の近くに琉球があるという奏文を皇帝に示している。そのような知識で何処に行こ
うとしたのか? 
 使録をみると、?の役人や琉球の迎接使のいうことを無視して、汪楫は無理に季節はずれの渡海をしている。中国
皇帝の意志をふりかざして、風もそれに従うはずだというのである。非合理的な考え方である。汪楫は非合理主義者
である。 
 
☆使琉球雑録巻二「彊域」 
 出発前と帰国後における汪楫の琉球の位置と彊域に対する認識がどのように変化したのかを確認してみてみよ
う。中外の界についての知識を得たのであれば、それは大きく変化しているはずである。 
  
  
☆琉球はどこに? 
 ☆出発前、汪楫は琉球の位置や領域をどう認識していたのか? 
 册封使として福州に出発する前に、七箇条の題本というものを汪楫は奏上している。七つの要求をした。公式の報
告書である册封疏鈔を読むとその内容がわかる。 
 その一条で次のように述べている。 
  
*************************************** 
一、……臣がつつしんで、『宋史』『元史』及び地図を広げ諸書を考察いたしますに、琉球は澎湖島とむかいあってい
て、遠くにはありませんが、現在、海賊がひそかに(澎湖島)を占拠しており、福建総督の姚啓望らは、ちょうど兵を
指揮して、進行中でございます。…… 
――訳注「汪楫册封琉球使録三篇」 原田禹雄 1997年 榕樹書林 
*************************************** 
 汪楫は出発前には、琉球の領域について全く、漠然とした知識しかもっていなかったのである。汪楫がこのとき、ひ
ろげた地図は間違いなく、鄭若曽系の琉球図である。他にはみることのできる図はない。大小琉球が混同されてい
ることがわかる。この時点では汪楫は鄭氏が大琉球島に接近している澎湖島を制圧していると思いこんでいたので
あろう。 
  
 ☆帰国後、どう認識は変わったのか? 使琉球雑録にみられる琉球国の位置 
 帰国後、記した使琉球雑録巻二彊域のなかでは琉球国の位置をこう記している。 
 琉球国在福建省之東以大勢論之当在東南然自福州府登舟必乗夏至西南風而行厳在東北ム+ヤ去中国不可以
里計浮大海中 
 庶民資料集成においては、次のように読み下されていた。 
*************************************** 
 琉球国は、福建省の東に在り。大勢を以て之を諭ずれば、当に東南に在るべし。然れども、福州府より登舟するに
は、必ず夏至、西南風に乗じて行く。則厳として東北に在り 
*************************************** 
 依然として、汪楫の地理的認識は曖昧模糊としている。出発前よりはましになってはいる。しかし一読では要を得
ない。わけのわからない書き方である。まずは琉球国は福建省の東にあると漠然と定義する。これは伝統的な認識
を示す。大小琉球が区別されていない。「以大勢論之当在東南」というのをどう解釈すればいいであろうか。国の大
勢からみれば東南にあるということであろうか。だとすればまあよい。しかしそれでは腑に落ちないところがある。大
勢の論では福建省の東南にあると読むことも出来る。三才図会においても、台湾が福建省の東南に在りとされてい
たことを思い出してみよう。 
 史書にでてくる琉球をすべて沖縄のことであると彼等は考えているのである。 
 そして汪楫は、福州府よりみれば厳然として琉球国は東北にあるという。夏の西南風に乗っていくのだから、福州
府の東北にあると経験により断言しているのである。厳と書いてあるのは、断定できるからである。しかしそれでは
琉球国は福建省の東にありと冒頭で定義したことや、福建省の東南にありと皆がいうとされたことはどうなるのか。
混乱している。きちんと整理されていない。 
 当時の中国人にとっては、琉球の地理的位置さえ、おぼつかない有様である。このことが改めてわかる。 
 その上「去中国不可以里計浮大海中」とされているのである。 
 再度いうが、巻二「彊域」においては、琉球の彊域についての汪楫の見解が示されている。琉球は中国から里をも
って計ることができないほど遠くにあるとされているのである。これが琉球の彊域に対する汪楫の理解だった。久米
島と赤尾嶼の間に界があったと理解した形跡さえみられない。汪楫が中外の界について、出発前には知らなかった
ことは間違いない。また、帰国後に界がそこにあるというように、認識を変えたとも認められない。 
 琉球は「中国を去ること、里を以て計るべからず。大海中に浮びて」とされている。絶海の孤島のようである。これは
海中に、中外の界があると汪楫が認めたという通説と反している。 
 使琉球雑録の「附 臣楫□琉球国新建至聖廟記」にも「琉球国は遠く海東万里の外に在りて」とある。使琉球雑録
には、他にも「遠い」という認識が示されているところが随所にある。 
 陳侃が「祀典を乞いたてまつる奏本」で見せたのと同じ認識を汪楫ももっているのである。全く一緒である。陳侃は
こういっていた。 
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臣らは勅命を奉じて琉球国へゆき、王を封じましたが、琉球は遠く海外にあって、路が通じているのではございませ
ん。従来よりすべて海路ですが、海中はみわたすかぎり水ばかりで、はるかに陸地とてなく、海底は深くて底が知れ
ません。 
――使琉球録 陳侃 原田禹雄訳 
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 やはり当時の中国人が、中外の界がどこにあるかということをはっきりと知っていたという説は極めて疑わしい。 
 「彊域」の条が汪楫の地理的認識を明確に示しているのである。 
 皇帝の意思も汪楫と同じである。諭祭の文章には琉球国は遠くにあるとされている。 
 清の領土が琉球領である久米島に順風ならば半日〜一日で至るはずの近くにまで延びているという認識はこの
「使琉球雑録巻二「彊域」」には見られない。国境は、やはり遠いのである。琉球国の近くに中国領の島などやはり
ないのである。 
  
  ☆ 琉球の人々の彊域認識 
 琉球の人々の方の彊域認識はどうであろうか。先ほどティンガナシーが界を認めていないことはすでに記述したが
……。 
 汪楫が尋ね聞き取った琉球の人の言葉にはこのようなものがある。 
「長史云う、幅員周廻は五六千里ばかりと」。「大約、東西は長くして南北は狭し」。そして輿図はないと記す。これが
琉球島の大きさやその形状をいったのだとすると、長史は正しい情報を与えていない。これは領域認識が粗雑なせ
いなのか。あるいは、正しい情報を与えないようにしているのか。 
  
 徐葆光は、手厳しく批判している。 
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 琉球には、もともと地図がなかった。前使の使録に「周囲は五、六千里ほどあろうか。東西に長く南北に狭い」といっ
ているのはすべて憶測だからである。私は訪問すること五、六ヶ月、その上大夫の蔡温とあまねく中山と山南の勝景
の地を遊覧し……南北の距離は四百四十里、東西の狭い所は数十里にすぎないのである。再三、討論してやっとこ
の図を制定した。(-226) 
――訳中山傳信録 徐葆光 原田禹雄訳 
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 周煌も汪楫のこの記載を厳しく批判している。 
  
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 汪楫録で「幅員周廻が五六千里ほどあり、東西が長く、南北が狭い」と云っているのを調べてみたが、これは実際
と合わないだけでなく、また、直ちに属島に之をなぞらえても、亦正しくないのである。(-150) 
――訳琉球国志略 周煌 原田禹雄訳 
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 しかし琉球の人々が鄭若曽の琉球図をもとに版図を答えたとすれば「長史云う、幅員周廻は五六千里ばかり」とい
うことは間違ってはいない。「大約、東西は長くして南北は狭し」というのも琉球諸島全体(小琉球を含んでもいい)を
さしていうのであれば、嘘ではない。大島筆記をみても、和漢三才図会に書かれている事は合うこと多しと琉球の知
識人は答えていた。図会にのっている鄭若曽系琉球図を合うこと多しといってるのと思われるのである。汪楫が聞い
た琉球の人々も同じように認識していたのではないか。そう考えるときちんとつじつまがあう。またそう考えないと、な
ぜこのような事実に反することを、册封使にいったのかがわからないのである。 
  
  ☆ 汪楫以後の册封使は中外の界の界を無視した。 
 徐葆光は中山傳信録のなかの後海行日記で二月二十日に溝を過ぎ海神を祭ったことを記録している。これは復路
である。往路では、溝をみてもないし、当然、祭りもしていない。そのことについて何の不審も記してない。汪楫がか
きとめた中外の界について一言も触れていない。 
 徐葆光は「中外の界」を無視した。それについての徐葆光の見解は「信寡し」ということでいいと思う。徐葆光は中
山傳信録のなかで次のように汪楫を評していというる。 

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「蓋し使期促迫し、捜討倉猝にして語言文字彼此訛謬、此を以て聞く所詞を異にす、これを伝えて信寡し」 
−−近世沖縄の社会と宗教 島尻勝太郎 三一書房 1980年 
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 それにしても汪楫は聞いたままに書き記すことが多く、きちんと考察していないと周煌も徐葆光もいうのである。伝
聞について判断を示さずにそのまま書いているのである。このことをよく覚えておいていただきたい。 





3.2.5.8遊歴日本図経
遊歴日本図経のなかの尖閣諸島 
「遊歴日本図経」は傳雲竜が日本で、1889年(明治二十二年)に書き上げた報告書である。傳雲竜は当時、新進
の気鋭の官吏であった 
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 清王朝の官吏、傳雲竜は、政府の派遣で、1887年から1889年にかけて日本を始め、アメリカ、カナダ、ペルー、キ
ューバ、ブラジル各国を歴訪した。傳雲竜は、調査、視察の結果を報告書『遊歴日本各国図経』にまとめ、図と表の
形で各国の歴史、官制、政事、外港、経済、文物制度などの基本状況を政府(総理各国事務衙門)に報告(-109 
近代日中語彙交流史――新漢語の生成と受容―― 笠間叢書271 沈国威 笠間書 
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 探索と情報収集を命じられた傳雲竜は、一年以上も日本に滞在している。日本を特に重視したのである。遊歴日本
図経は、日本で、印刷された。傳雲竜は帰国後すぐに総理衙門にこれを提出し称賛を得た。1893年には、すでにそ
の一部が公刊されている。小方壷斎刊輿地叢鈔のなかに抄録されたのである 
 「淅江と日本」(編著者 藤善真澄 関西大学東西学術研究所 平成九年)によれば、淅江図書館蔵の「遊歴日本
図経」には「御覧」という朱印がおしてあるという。これは皇帝が見たということであろう。この刊本には当時の中国に
おいて著名な人物の序が四つもつけられている 
 「遊歴日本図経」には、多数の図表が収められているのが特徴である。表の一つに、尖閣諸島がでてくる。「図経
六 島表」に、「……鳩間 沖之神 与那国 尖閣郡 低牙吾蘇」とされている。「州南諸島」の一部とされている。こ
の郡は群の誤記である。尖閣郡と低牙吾蘇の二島がでてくる。日本側の史料をみれば、尖閣群島の範囲に低牙吾
蘇島が当初入っていなかったことは明らかである。それを反映している。 
 日本の尖閣領有を認めている有力な史料である。この刊年は日清戦争の前、つまり、日本の編入(正確にいえば
今日、「先占」とされている手続き)のなされる以前であることに注目しなければならない。 この表においては島と嶼
がきちんと区別されている。これが中国人の伝統的な考えである。傳雲竜が日本政府の資料を丸写ししたものでは
ないことは明らかである。繰り返すが、島と嶼は厳然として区別されている。 
 尖閣郡や低牙吾蘇は島の方に区分されている。 
 この日本遊歴図経は、公刊された著名な著作である。その上、政府が派遣した官吏が政府に対して提出した報告
書であったということがとりわけ重要である 
 尖閣諸島の日本帰属を認める中国史料は調べれば続々と出て来るであろう 




3.6.2ゴービル 1785年公刊
「チャイニーズが琉球諸島と呼ぶ島についての覚え書」
 ゴービルの「チャイニーズが琉球諸島と呼ぶ島についての覚え書」を検討してみよう。これが公刊された時のタイト
ルである。北京にいたイエズス会の宣教師ゴービルが1751年にイエズス会本部に送った書簡そのものである。ゴ
ービルは徐葆光の中山傳信録を元にして、更に伝聞を加えて琉球に関する報告をした。そして自身が作成した琉球
図をこの書簡に添付した。最初から公刊されることを念頭において書かれたものである。 
 この書簡と附図は、1758年にイエズス会により公刊された「教化的で不思議な書簡集」の中に収められた。欧州
で読むことができる本格的な琉球関係資料としては当時、これが殆ど唯一のものであった。琉球関係の情報は希薄
であった。 

  ☆ ゴービルとは
 ゴービルとはどういう人物であろうか。ゴービルは康熙帝と乾隆帝に仕えた宣教師である。ヨーロッパの科学技術を
伝えてくれる学者として重用された。 
  
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 英・仏・露の科学アカデミーとの通信を行い、中国の天文学、数学など科学的な研究を発表している。その間、多く
の中国の史書や満州に関する文献を訳出して著書にまとめて上梓している。 
――ブロッサム号来琉記 △ 
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 学者としての活躍の他に、外交官としての働きも見逃すことが出来ない。北京に来る西洋人と清帝国の間の交渉